質的研究批判

質的研究批判  

 日本心理学会に行ったら、質的研究というワークショップがいくつもあった。都合で一つだけ聞いたのだが、さっぱりわからなかった。
 それで、「質的研究」をキーワードに考えついたことを書いてみたい。

 質的研究に対峙されるのは、とりあえず量的研究である。これまでは、量的研究だったのだが、量的に押さえるだけではわからないことがあるというのが、急に増えた質的研究がどうのこうのと言う人たちの思惑だろう。しかし、質的研究の方法論というのは整備されていないようだった。
 たとえば、質的研究というのは文学だと言ったパネラーがいた。作家は、様々な資料、それは文献の場合もあればインタビューの場合もあるし観察の場合もある、を用いて考察し、読者の共感を呼ぶように提示する。こう書いてみると、文学と質的研究の違いはないと言えないだろうか。
 文学的な科学というのも、存在することになっている。文化人類学などがそうで、長々と記述する。けれど、それだけだと旅行記と変わらなくなるから、テーマを定める。それは文化に通底するものとか、そういうにわかには確認しがたい深層のものが多い。しかし、それだけでいいのかは、わからない。レヴィストロースが脚光を浴びたのは、その通底するものをデータに基づいてモデル化したからである。つまり、人々が気づかなかった事実をうまく説明することができたがために感心されたのだ。
 私はよく、研究は知識を生み出すものだと言っている。知識は短い言葉や数式で表されるものほど価値が高い。その方が使えるからだ。それに対して、長々とデータを網羅的に記述することにも価値があるとする態度もある。それを否定はしないが、それは知識を生み出しているとは言い難いから価値が低いことが多い。そう考えないと、SD法でデータを取っただけで意味があることになってしまい、なぜ因子分析をするのか、なぜそれを解釈するのかを説明できない。
 実は、環境心理学も記述主義に陥っている部分がある。バーカーなどはシステマティックにデータを記述した。しかし、それを解析する方法を持たなかったために、「そんなことわかっているよ。」と言われかねないことを記述しただけだったと、生態学的心理学の入門書を2〜3冊読んだ限りでは思う。
 だから、質的心理学を云々言う人は、まず、方法論を整備すべきだろう。参与観察するのだとか、イメージを(数値化せず)生のまま扱うとか、そういうことにメソドロジーが加わらなければ、なぜそれでいいのかわからない。

 さて、ここで批判の対象である量的研究というのを眺めてみよう。
 量的研究というのは、統計学に則った研究ということだろう。心理学は科学より再現性が低いように見えるから、確率・統計というツールが出てこなければ、科学と認められなかったかもしれない。5%有意というような曖昧さを残すことによって、法則らしきものを作ることが可能になったのだ。別の言葉で言えば、意味があると認定する判断基準を持っているということだ。
 質的研究の論者に聞きたいのは、雑誌の採否の基準は何かということだ。基準がなければ、採否の判断を下すことができない。新しい知見が含まれているか、それが価値があるかというのも大きな基準だが、それがほぼ正しいと考えてよい結果かどうかという基準もある。研究で、「嘘でもいいです。面白いでしょう。」とやっちゃうと、まずい。それはエッセーであり、文学である可能性が高い。量的研究は、それを統計学に求めたのだが、質的研究では根拠をどこに置くのだろう。

 ちょっと前に現象学を少しかじったが、現象学が科学かと言えば否であろう。個人に頼りすぎているし、純粋に間主観性が成立するとすれば、それは個人差がないときだからだ。もっとも、私は研究というのがデータをもとに人を説得する過程だと思っている。人々が説得されれば間主観性が成立して、法則みたいなものになるのかもしれない。だが、私がちらっと聞いた範囲では、質的研究の話は「私がこう感じた。」というレベルにあるような気がする。
 これは実践においては役立つ可能性がある。その感じたことに基づいて何らかの変化を環境に加えたとき、予想されたような結果が得られれば、それで良し。しかし、これは仮説の検証過程だと思われる。建築計画での伝統的な使われ方研究というのは、生活の観察から仮説を導き出し、実際に住宅なり学校なりを設計してみてまた観察するという過程を経る。その結果、予測された方向に実際の場なり行動なりが変化すれば、仮説が検証されたと見なすのである。
 実学の一つの特徴は、このような現場実験ができるところにある。だから、質的研究でも現場実験をするという手はあるだろうと思う。その時は、観察で思いついたことが研究結果ではなく仮説であることを認めて欲しいものだ。それなら、ちょっと観察しただけで認めてしまってもいいかもしれない。

 アクションリサーチをやっている後輩がいる。彼は商店街の活性化計画に関わっていて、どうやったらうまくいくのかを探りたいのだ。しかし、いくつもそのような計画に携われるわけではないし、同じプロジェクトも二度とない。たまたまうまくいった(いかなかった)のか、手法と結果に緊密な関連があるのかを判断しづらいので、論文になりにくい。どうしたらいいだろうかというのが彼の悩みである。
 いや、いいんだ。それこそ価値があるという意見もあるだろうが、それは論文としてではなく、事例研究としての価値だろう。確かにある知識を生み出しているが、その確実性の度合いは判断することができない。だから、私なら実験的な状況での研究とケーススタディとしての実際との組み合わせを考えるということを彼には言ったのだった。
(ピアジェの人間科学序説が質的研究に批判的だとしゃべっていたパネラーがいたが、私はピアジェの立場に近い。ピアジェはいいこと言っていると思って読んだ記憶がある。科学的であろうとすれば、実験的にならざるをえないと思う。)

 さて、環境心理学は実験が効かない分野を持っている。たとえば、人口密度が生活に及ぼす影響を明らかにしたいと思ったとする。実際の環境では、高密度の住宅地が高層で低所得者で大家族が多く、低密度の住宅地が反対であるなどということが往々にしてあり、どれが本当の要因かわからない。だから、密度以外の要因を一定にした実験を行いたいのだが、これは難しい。それで、環境心理学の研究結果は曖昧なものになりがちである。
 しかし、やりようはあるのではないか。
 ひとつは、傾向を調べるというものだ。統制などせずに、データを集める。密度以外の要因もできるだけ多様になるように集める。それで、傾向を見る。これが一番原始的な方法だ。私は心理学は傾向を調べているのだと思っている。
 最近ではグラフィカルモデリングとか共分散構造分析のように偏相関をもとにしており、統制しなくても影響の強さを産出してくれる数学モデルも出始めている。そういう手法を取り入れることも必要となるだろう。

 質的研究をやっている人は、発達心理の人が多いみたいだった。一例観察して仮説を出して、でも何十例も集めないと統計的に有意にならなくて、だから少数例からでも話をしたいという、そういうことならわかる気もする。自分で確実だと思えると、やる気は失せてくる。もっと他にやりたいことがたくさんあるのだから。それならわかる。取りあえず、そういう研究も事例研究として掲載しちゃえという意気込みなら、世間の評価は低いかも知れないが応援したい気持ちもある。これまで棚に上げてきたが、自分の研究では検定をほとんど使ったことがないのだから。それでも建築学会は掲載してくれるから助かっているのだ。

 批判を始めたのに、最後は応援になってしまった。掲載基準のコンセンサスがある程度明確になったのなら、そして内容が面白いのなら、質的研究という旗を揚げて雑誌を創刊した意味が出てくるのだろう。遠くから見守ることにする。


fin.
2003.1.8
























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