「街並みの美学」を読んで

「街並みの美学」を読んで  

ちょっとした文化の違いのお話し

芦原義信の「街並みの美学」は、間違いなく名著である。その中に、「イタリア人は人々の出会いの場として人為的な広場−「ピアッツァ」をつくってきたし、イギリス人は人々の出会わない休息の場としての自然の公園−「パーク」をつくってきた。」という件があり、「アフォーダンス ほのめかしの環境文化」というエッセーに引用させてもらった。このあたり、人々の空間感覚の文化差に触れているところであるが、そこから2つの箇所を抜き出して、考察してみたい。


その1
 さて、人間が安心して生活してゆくためにはどうしても空間における「境界」の存在が必要である。しからば、薄い壁の家に住み都市集落的にも「囲郭」のないわれわれ日本人にとっては、一体、何がこの「境界」の役目を果たしてくれているのであろうか。
 これは私自身の推測であるが、わが国が地理的に大陸から遊離した島国であり、周囲には大海があって簡単には交通ができなかった事実、一般的に同質同文の民族が住み着いてい事実等から判断して、我々の深層心理における「境界」は、国土をとりまく海洋であったのではないかと考えられる。乾燥地帯の人々は、営々と自分たちの力で城壁を築いたのに対し、我々の場合は海洋という地理的な城壁であって、われわれがつくったという意識の絶無な「境界」であるという点に思い至らせられるのである。
-----「都市の囲い」より

 この文章の前には、西洋人にとって境界 -守られた場所- が必須であることが述べられている。その上で。
 海が意識上の境界だという見解だが、ここには若干の違和感を感じる。昔の日本人は、日本の四周が海であるという認識を持っていたとは思えない。戦国時代など、隣国を意識することはあっても、支那を意識して生活していたわけではないだろう。意識の外にあるものは境界を必要としないと思われる。
 日本では、城を攻め落とすのが戦であって、農民を巻き込まないという話を聞いたことがある。どちらかが勝って新しい領主になるだけである。それに対し、西洋の都市国家の場合には男は皆殺しだとか、婦女子も危ないと言われる。この伝聞が正しければ、一方が町を守る必要性を感じず、もう一方が築くのはあたりまえのことに思われる。
 そうしてみると、境界を必要とする文化と必要としない文化と捉えた方が据わりがいいような気がする。うちの子どもたちはドアを閉めるということをしない。しないが別段不自由ないようだ。安心しているから、そしてプライバシーを格別に必要としないから平気なのだろう。
 パリでもウィーンでも19世紀には城壁を壊した。それは大砲が発明されて、城壁が意味をなさなくなったからだ。囲いがなくなって何か変わったか。大して変わりはしないと思う。

 それに対して、家に入るときは靴を脱ぐとか、そういうレベルの事柄は、日常と密接に結びついているからなくならない。変化しない。日本の住宅で塀が無くならないのは何とかならないかと思うが、そういう感覚の方が粘り強い。
 私は塀が無くならないのは「見られること」に対する意識の違いと見る。妻は室内を見られることを嫌がる。そんなに変わったことをしている訳でなし、家の中を見入る人の方が珍しいだろうし、それほど気にしなくてもいいと思うが、嫌がった。西欧では、リビングは見られてもいい活動の場であるような気がする(オランダで目にしたリビング丸見えの住宅の話を書いたことがある)。「プライベートは人様にお見せしないもの、自分たちだけのもの。」そういう感覚を持っているか、「リビングはプライベートよりはパブリックに近いもの、人様にお見せするもの。」と思っているかの違いだろうと思う。


その2
 日本では、道路の名称表示が非常に少ない代わりに地名の表示が多いこと、地下鉄では反対に線名の表示が多く、行き先の表示が少ないとしている。その上で、「どうも、我が国の道路や地下鉄の方向感覚というのは、諸外国とは逆のようである。」と記している。
−−−−−「街路と建築との関係」より

 この記述はしかし、よく考えてみると矛盾していると思う。ラインとしての線を意識するか、ターミナルとしての点を意識するかが、文化によって決まっているわけではないことを表しているからだ。だから、たまたまそうなったのではないかと思う。
 私は日本の表示の方が若干優れていると思う。道路がうじゃうじゃ交差している都会で道の名前はあまり意味がない。それより、今どこにいて、どこに向かっているのかをチェックすることの方が重要だ。一方、地下鉄は路線を間違えば目的地にたどり着けない。目的の路線のホームに行ってから方向をチェックすれば十分であり、このやり方が自然である。(ホームがひとつなら)

 実は、日本人と西洋人では地理の把握の仕方が違うように思う。それを如実に感じるのはガイドブックだ。ミシュランなどを見たことのある人はわかると思うが、あちらのガイドブックはアルファベット順に項目が並んでいて、目的の都市を引き当て、当該ページに移動して情報を得る形式になっている。アルファベット順であるから、地理的な近さなど関係ない。目的地の名前が、まず必要なのである。これって、地下鉄の表示と同類ではないだろうか。
 頭の中の地図を研究した人達が提唱した概念に、ルートマップとサーベイマップというのがある。いつも通っているお決まりの道で、大体の距離と道沿いの景色がわかる程度がルートマップ、いくつものルートが繋がり合って地図のように二次元になったのがサーベイマップである。当然後者の方が地理的把握としては上等で、地理感覚に優れる人に後者の地図を頭に保持している人が多い。私には、前者がヨーロッパ型、後者が日本型だと思える。
 前後左右を把握しつつ移動することを前提とした表示体系と、「ここを真っ直ぐ行って、あそこで曲がって...」という移動方法を前提とした表示体系の違い。
 私は、旅の途中に、その周りの情報を得て行き先を決めていくのが好きだから、日本の表示体系を愛する。どうもミシュランはわかりづらい。地球の歩き方の方が向いている。


2009.09.16


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