tachi's COLUMN

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iPod越しにみる風景(2004.05.10)

 Apple社の出しているiPodという機械があります。簡単に言うとヘッドホンステレオのようなもので、ただしカセットテープやらCDやらを交換しながらかけるのではなく、巨大なハードディスクを持っていて、そこに曲をがんがんと貯めておくのです。この小さな機械を一つ持っていると、CD何十枚分もの音楽を携帯でき、いつでもどこでも好きなときに曲を聴くことができる音楽プレーヤーです。曲を蓄える作業も難しいことはなく、iTunesというソフトを使ってコンピューターのハードディスクにいったん蓄えてやれば、あとはコンピューターとiPodをつなぐだけで実に簡単に行うことができるというものです。

 詳しいことはAppleのホームページなりを見てもらえばいいのですが、このiPodは音楽の携帯性と使用の簡単さ、すっきりとしたデザインによって、かなり売れているようです。かくいう私も一つ所有しており、なかなか便利に使っています。実は携帯用のハードディスクの代わりになるという言い訳で購入し、しばらくは使いもせずに箱に入ったままになっていたのですが、いったん使い始めるとなかなか楽ちん・便利で楽しいものです。  今では15GBや30GBという巨大なハードディスクを持ったものが売られていますが、初期型は5GBタイプです。ちょっと見劣りするような感じもしないことはないのですが、当時は何しろこんな小さなものの中に5GBのハードディスクが積まれているというのは驚きでしたし、その5GBですら、まだ使い切ってはいない状況です。この広大なディスク領域は、つまり自分が持ち歩くための音楽を選択する必要がなく、持っているCDをとにかく片っ端から放り込んでおけるところに、使いやすさの魅力の一つが確かにあるような気がします。ディスクの容量が限られていると、今日はどの音楽を持って行こうかと悩みながらセレクションをしなければいけませんし、その作業に繁雑な手続きが必要だったりすると、こりゃもう面倒だ、ということに間違いなくなるだろうと思います。発売された当初は、なんだただの音楽プレーヤーかと思っていましたが、なかなか絶妙な使い勝手が考えられた品物だということがじわじわと分かってきます。

 まあ、そのようなことはどこでも書かれているので、あえて繰り返す必要はなかったかもしれません。ここでの本題はもう少し違うことです。誰かがどこかのページで、iPodはこれまでとは違う音楽の聴き方をもたらしてくれる、というような趣旨の文を読んだことがあります。とにかくたくさん音楽を詰め込んで携帯し、シャッフルしながら聴いていくと、自分の意図しない音楽が次々と耳に飛び込んでくる、その都度、音楽に合わせて自分の歩いている周囲の景色が変化していく、というようなものだったと記憶しています。軽快な音楽のときには自分の足取りも軽やかに町の景色も軽快に流れていき、しっとりとした音楽の時には周りがまるで映画のワンシーンであるかのように見えてきたりするわけです。

 音楽と風景との結びつきは確かに強いわけで、子どもの時に流行っていた曲などがふと聞こえてくると、当時の何か思い出の風景が蘇ってくることは誰にでもあるのではないかと思います。孤独に受験勉強をしていたときにひたすら聴いていた曲や、徹夜で図面を描いたり模型をつくっていたときに聴いていた曲、北海道の誰もいない原野で吹雪の中歩きながら聴いていた曲などは、久しぶりにその曲を耳にするとそのときの風景がありありとした手触りとともに思い出されるような気がします。

 そのことは十分に踏まえた上で、それでも、ヘッドホンをかけながら町の中を歩くことに対する奇妙な違和感は残っています。自分でヘッドホンをして音楽を聴きながら電車に揺られていたり町の中を歩いていたりすると、そう、まさに周囲が風景に変貌するのです。周囲とは直接コンタクトすることを拒絶し、自分の世界に入り込み、そして一方的に周囲の景色を「風景」としてのぞき見ているような感覚と言えばいいでしょうか。

 実際にほとんど周りの人と直接にコミュニケートすることはないとしても、少なくとも何かがあればコミュニケートする余地を残しながらそこに「居る」存在であった私が、ヘッドホンをすることによってその余地を切り捨ててしまい、しかも、今の私は周囲とは直接コミュニケートする存在ではないことを周囲に対してアピールしているように感じるのです。混み合った電車の中で、直接に言葉などは交わさなくても互いに気を遣いながらいる状況と、一人だけ自分の世界に壁を作って周囲の人たちを単なる風景として見下ろしているような状況とは、やはり何かが違う気がしています。

 これはもちろんiPodに限った話ではないのですが、これが以前のカセットテープやCDプレーヤーであると、途中でテープやディスクを交換するという手間があって、このとき周りから、ディスクを替えているな、とか、この人はこんな音楽を聴いているのか、といった姿が見られることになります。こんなことは本当にまあ大したことではないと思うのですが、それでもその時、やっぱりなと思ったり、へえ意外だなと思ったりして、ある意味でその人の情報が周りの人に伝わる機会とも言えるでしょう。しかしiPodの場合とくに容量が大きく、その内部に膨大な曲を蓄えておくことができるため、途中で操作を行うことは少なくて済みます。つまり周りの人に対して自分の情報を出さないクローズドな状況を保つことができてしまうわけで、この問題の孕む意味としてはより深くなっているのかもしれません。

 別に他の人に迷惑をかけているわけではないし、退屈で非人間的な車内をいかに快適に過ごせるようにするか、という視点から考えれば、端から文句を言う筋合いのものではないし、それどころか大変優れた解決法の一つである、ということは十分に理解できますし、実際にそう思うことも多々あるわけです。が、そのときにやはりトレードオフで、自分は周囲との間にあえて壁を作っており、これは他者からの干渉を拒否するというだけでなく、自分がその世界の中で体験し学ぶことをも断念しているということではないかと思います。電車の中や町の中など、いわゆる公共の場面でiPodを取り出そうとするとき、いつもそのような一瞬の逡巡の後に、ときには一人の世界にのめり込み、ときには他者の居る世界に踏みとどまったりしています。


 電車のなかで本を読んでいる人と同じなのかどうか。これはなかなか難しいところですが、何となく違うのではという気がしています。一つには行為の受動性と共有のされ方ということがあり、コンピューターによるデジタルハブという考え方に感じる違和感とも通じるように思っていますが、また改めて。


2004, Space Design Laboratory, JISSEN Univ.