tachi's COLUMN

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絵を見るということ(2005.10.05)

 10月2日のMERAの研究会に参加してきた。九州大学が数年前に九州芸工大と合併し、そして今度キャンパスが移転する。ちょうど新キャンパスのオープンが10月1日だったので、その見学会も兼ねて、九州大学で研究会を行ったのだ。九州大学の芸術工学の先生を招いて2題の講演が行われたが、個人的に面白かったのは「絵画の中に時間をみる」というようなテーマで語られたものである。その先生の専門は「感性工学」ということを強調していた。

 絵画そのものは動かない。いわば時間を切り取ったものであるにもかかわらず、我々は絵画の中にさまざまな時間を感じている。ある絵に対してはせわしないような時間の動きを感じ、別の絵に対しては時間がすっかり止まっている印象を受けることがある。そこで被験者に対してさまざまな絵画を見せて、そのときに感じた印象を表現してもらったところ、絵が大きく3つのグループに分かれた。(ちなみに、動きそのものをモチーフにした絵画は極力用いないようにしている。)

 一つめのグループには超現実主義的絵画(シュールレアリズム)が多く含まれ、それらの印象は、時間が止まって感じられる。二つめのグループはかなり抽象的な絵画で占められ、時間が素早く動いているという印象が多く得られた。三つめのグループは主に写実的な絵画で、それらに対しては、ゆったりとした時間の流れが感じられるという意見が多かった。つまり、絵画によって、「静止」「変化」「持続」という3つの異なる時間の感覚が喚起される、というのである。

 ところで、生態心理学者のギブソンは「見る」ということを、目に対する刺激-反応とは捉えていない。以下は個人的な解釈ではあるが、人は環境の中で自分が動くことで、環境の光学的配列の変化を情報として知覚する。そのようにして視覚的に自分と環境との関係を探っていることこそが、「見る」ということに他ならない。それではわれわれは環境や物を見るときに、いちいち動き回っているのだろうか?そう、眼球はつねに動いており固定しているわけではない。その目は頭の上部に位置しており、頭は身体に首を介して配置され、身体は移動可能な脚によって支えられている。身体はつねに何らかの動きを伴っており、視点は一点に固定されることはないのである。手前にある物と奥にある物の区別は、遠近法を知らなくても、たとえ片目で見ていたとしても、首を少し動かしてみればすぐに分かるだろう。視覚的に環境を捉えるのは、映像を受動的に捉える視覚器官(目)だけの役割ではなく、全身の動きを伴う能動的な視覚システムによるのである。

 さて、では絵画や写真はどのように理解されるのだろう。視線を変えたところで、絵や写真全体がゆがむだけであり、そこに描かれたものの光学的配列が変化するわけではない。たとえば視点を強制的に固定された状態で見たとしても、ふつうの状態で見たときと、その絵画の印象はそれほど大きく変わるとは思われない。絵画や写真を見るということは、自分の身の回りの環境を視覚的に捉えていくような能動的な関わり方ではなく、あくまで目に対する刺激を頭のなかで情報処理して解釈する、というプロセスで考える必要があるのだろうか。

 絵画や写真を理解しようとするときにも、やはり自ら動いていくような能動的なプロセスはあるんではないかという気がしている。つまり、その世界の中に仮想的に身を投入して、その世界の中をさまざまに動き回ってみる、ということがなされているのではないか。たとえば、そこに描かれた海に近づいて波の音を聞いてみたり、家の周りをぐるりと回ってみたり、遠くにいる人に近寄っていって何をしているのか確かめてみたり、ちょっと高いところから見下ろしてみたり、など、さまざまな視点を巡らせて、その世界を動き回ってみる。そうした擬似的な体験が、そこに描かれた世界を理解したり解釈したりすることに伴っているのではないか。

 そうして考えてみると、写実的な絵画を見ているとき、われわれはその世界をけっこう自由に自分のペースで動き回ることができる。その世界に描かれた時間の流れを感じるとともに、自分が視点を巡らせて動いていることで、その世界と自分との関係のなかでゆったりと「持続」した時間の流れを感じているのではないだろうか。

 それに対してシュールレアリズムの絵は、ある意味で視点が固定化されてしまう。その世界を自由に動き回ろうとしても、われわれの日常とは切り離された世界のなかで身動きが取れなくなってしまうような感覚に襲われる。結果的に画家の描いた視点以外の視点を自由にとることが難しい。絵の世界と自分との間に「動き」に伴う時間の要素が入り込めず、それが「静止」しているイメージにつながる気がしている。写実的な絵であっても、遠くの山の向こうの空に大きな月が浮かんでいるような絵であれば、あえて視点を動かそうとは思えず(多少視点を動かしたところで、自分とその世界との関係はほとんど変わることがないので)、やはり「静止」した印象が強くなるだろう。ある意味で、シュールレアリズムの絵というのは、見る人が自由に視点を移動させることを拒み、作者の視点のみを強制することを特徴としているのかもしれない。

 それでは「変化」の印象をもたらす抽象的なモチーフについてはどうだろう。これはまだ何とも言えない部分もあるが、むしろ視点をゆっくりと動かしていくことはできず、半ば強制的に視点の素早い移動を余儀なくされているような気がした。シュールレアリズムの絵では、一応その世界に入り込んだ上で視点が固定化されてしまったが、色とりどりの不定形の図形がさまざまに連続するような抽象画では、その世界のどこから入り込んでいくべきかを探るべく、あっちこっちへと表面的に視点を移動させていく。それがどうも速度感をもたらすことと無関係ではないように思っている。訓練によっては、その世界に入り込んでじっくりと視点を動かしながら作品を堪能することもできるようになるかもしれない。

 絵画のなかのどのような要素が刺激となって、それを見る人に対して何らかの「時間」の感覚をもたらすのか、その刺激に対して人の脳の中では「時間」に反応する神経がどのように発火するのか、という視点で研究していくとき、絵画はあくまで刺激であり、人はそれに受動的に反応するものである、というモデルが前提となっている。しかし人の「感性」とは、そのような受動的なものと捉えるべきなのか。それよりも、世界を「理解しよう」とする人の能動的な営みの表現として「感性」というものを捉えられないか。誤解ないように言っておくと、それは、ブラックボックスとしての「感性」がすべてを決めてしまうような感性至上主義ではない。人と環境との相互のやりとりの豊かさに注目していきたい、という視点からの感想である。人と環境との相互の豊かなやりとりを、ある時は促進し、あるときは抑制したりするような環境の質があるに違いないと思っているし、ギブソンのアフォーダンスという言葉も、そのような環境の質と無関係ではない気がしている。


2005, Space Design Laboratory, JISSEN Univ.