tachi's COLUMN

戻る

「原っぱと遊園地」再考(2005.12.09)

 「原っぱと遊園地」といえば、言わずとしれた青木淳さんのよく知られた論文である。と言っても実際に読んだのはつい最近のことで、何か文章の草稿を書いたときに、青木淳さんの言葉と結構かぶってるねと言われ、あわてて読んでみたのが最初である。そのときも大変面白く、なるほどと思って読んだ。なにしろ「原っぱと遊園地」というタイトルを聞いただけで、なんとなく言わんとすることが感じられるではないか。先日のゼミでいろんな文献を学生に読んでもらったが、そのうちの一つにこの論文があったので、しばらくぶりに内容に目を通すことになり、改めていろんなことを考えてしまった。

 「原っぱ」と「遊園地」というのはもちろん比喩であるが、建築は大雑把にこの2種類に分けられるという。簡単に言えば、「遊園地」というのはそこでの楽しみ方を最初に細かく想定して、そこから逆算してその楽しみを叶えるべく整えられた建築や環境のことである。「遊園地」が本質的に目指すものは、利用者にとって「いたれりつくせり」の環境である。しかしそこでは、はじめに想定された楽しみ方以外の楽しみ方を得ることはできない。青木淳さんの例で言えば、ジェットコースターとして作られた環境は、ジェットコースター以外の楽しみ方はできないのである。

 これに対して「原っぱ」とは、そこに開かれた場所が与えられているだけであり、そこでの楽しみ方は、利用者がその都度見つけ出したり作り出したりするものである。そこで具体的にどんな楽しみがあるのかは行ってみるまで分からず、そこに集まってきたり居合わせた人たちによって、その場で編み出されていく。自分たちで遊びを決め、ルールを決め、でも翌日には新しいルールがまた生み出されているかもしれない。環境は潜在的にそこでの楽しみをサポートするが、楽しみ方を利用者に押しつけることはない。

 1週間前のゼミでは過去の卒論を読んでもらった。その中に、2年ほど前のものだが、裏原宿の魅力に迫ろうとする卒論がある。はじめは複合商業施設、舞浜のイクスピアリのような場所を対象にしようとしていたのだが、一度行ってみたところ、まあ楽しかったがそれだけのことで、何となく深みがないという。それよりもむしろ裏原宿のような街の方が、何度も行ってみたくなる、それはなぜだろうか、という問題意識からスタートした。結論としては、そのような街を感じる意識の構造として、「期待」→「探索」→「発見」→「期待」という三角形のスパイラルを提案してくれた。自ら街を探索して、つねに新しい何かを発見する楽しみこそが街の魅力ではないかと言うのだ。これはなかなか良いセンスをしていると今でも思っているが、ここでのイクスピアリと裏原宿の街というのは、前者が遊園地、後者が原っぱとして位置づけることができるなあと、今さらながら思い返すことができた。

 裏原宿のような街で、隅から隅まで知り尽くしていて、街中の人たちに顔の利くような存在になったとすると、それはその街の達人として、あるいはその街の生活のプロとして、一つの人的資源と言えそうだ。案内役になったり仲介役になったりと、さまざまな場面で頼りにされることも多いかもしれない。さてそれでは、イクスピアリやディズニーランドを利用者として隅から隅まで知り尽くしている人は、果たしてプロと言えるだろうか。これはただのオタクであるという気がする。誰かの描いたプログラムの手の平の中で、そのプログラムの重箱の隅まで知っているというだけのことである。

 こう考えてみると、趣味の世界も、「原っぱ」色の強いものと、「遊園地」色の強いものがありそうだ。文字だけの本よりもマンガのほうが、マンガよりもアニメのほうが、「遊園地」色が強くなる。画像が加わり音声が加わり読み手のペースではなく作り手のペースで話が進むようになると、それだけ世界観がプログラムされ「いたれりつくせり」感が強くなっていく。それだけ自分の中でオリジナリティを持って定位させる必要がなくなっていくわけである。テレビゲームなどはさらに高度にプログラミングされており、実は「いたれりつくせり」世界のなかをあたかも自分が冒険しているような気にさせてくれる。それは、迷いと発見を巧妙にプログラミングしているディズニーランドのなかを散策して小さな発見を喜ぶことに似ているかもしれない。

 まだ理論的にではなく、ただの思いつきの感覚でしかないが、「原っぱ」の達人とは何かを生み出す力をもっており、その場の主として影響力をもつ存在となるが、「遊園地」の達人とは要するにオタク以上のものにはならないのではないか。「原っぱ」の達人が、ある意味で公共的な開かれた存在であるのに対し、「遊園地」の達人は、極めて限られたコミュニティのなかで一目置かれたとしても、それが広がりを持つことはない。

 日本のアニメやゲームはもはや世界に誇れる文化であるという論調がよくなされるようになった。確かにそれらを作り出す側にはクリエイティビティも感じるし、質の高い作品も含まれていることは認めるが、しかしアニメやゲーム一般を文化として誇る気にどうしてもならないのは、これらの「遊園地」色の強さ故かもしれない。作り手側ではなく受け手側にとっては、きわめて受動的な楽しみであり、それを極めて行き着く先はオタクでしかない。そもそも、電車でマンガを読んでいる姿、自室のビデオでアニメを見ている姿、ゲーセンでゲームに熱中している姿は、どれを見ても格好良くないし美しくない。

 ところで、かつてはロックは自他共に「原っぱ」であったが、最近の商業主義路線はやはり「遊園地」に向かっている、という言い方もありそうだ。かつてのローリングストーンズはいかにも「原っぱ」だが、ボンジョビなんてどこからどう見ても(聴いても)「遊園地」だ、という感覚は何となくお分かりにならないだろうか。これはさすがにちょっと話を広げすぎてるかもしれない。でも、みんなを楽しませることで自分も儲かる「遊園地」ビジネスは、ますます幅をきかせているような気がする。もっと便利に!もっと快適に!もっと楽しく!WIN-WIN!それに対してちょっと待てよ、と言い切れる理論を持ちたいと思いながらも、まだ確立できていない。


2005, Space Design Laboratory, JISSEN Univ.