生活環境講座

第1回 カラーユニバーサルデザイン 槙 究
緑と赤の区別がつきづらい人は40人クラスに1人いる

 トップバッターとして、今やカラーデザインのトレンドの一つに躍り出た感のある「色のユニバーサルデザイン」について書いてみよう。
 みなさんは、日本人男性の20人に1人は赤と緑の区別がつかない(つきづらい)ということをご存じだろうか。黄と青、赤と緑は反対の色だと中学で習ったのではないかと思う。その反対の色どうしの区別がつかないのである。黄に緑を混ぜれば黄緑、赤を混ぜれば橙になる。黄は共通の成分なのだから、このような人達には黄緑と橙の区別もつきづらいということになる。
 実は赤と緑が判別できない人にも2タイプあって、一方は赤を感じる視細胞が働かず、一方は緑を感じる視細胞が働かないのだという。赤を感じられない人にとって、赤は黒と同じに見える(こう言い切ってしまうと語弊があるのだが、類似して見える)。そうなると、黒の中に赤で強調している文字は、ほとんど意味を為さないということになる。

自然は変えられないが、デザインは変えられる

 先日、ビッグサイトで開催されたColor Solutionという展示会に行ってみたが、そこでもカラーユニバーサルデザインは大きく扱われていた。そこで目にした一言が、上述のそれである。赤と緑の区別がつかない人には、黄緑の青柿と橙の熟した柿の区別はつかないかもしれない。それは仕方がないのかもしれないが、路線図やサインや文書やインジケーターであれば、デザインに配慮することにより、見やすくすることが可能ではないか。たとえば、黒と赤ではなく黒とオレンジがかった赤を使用すれば区別がしやすくなる。
 デザインを変えることによって、環境の中に存在する障害をなくしていこう。そういう動きが広がってきているのである。

技術の進歩とデザイン

 具体的なデザインの事例やガイドラインについては、CUDO(Color Universal Design Organization:カラーユニバーサルデザインを主導するNPO)や自治体のガイドライン(たとえば神奈川県の色づかいのガイドラインや静岡県の文書作成マニュアル)を参照してもらうことにして、ここでは、デザインの可能性と時代や技術の変遷という話題でこの小論を閉じることにしたい。
 実は、カラーユニバーサルデザインが課題になってきた背景には、環境の多色化が関わっている。
 私が生まれた年に東京オリンピックがあったが、それはテレビのカラー放送が始まった年でもある。それより以前、テレビを見ている状況に限れば、赤と緑の区別がつかないことはハンディではなかったはずだ。最近はカラープリンターやカラーコピーが発達して文書がカラー化されてきた。モノクロ文書の時代にもハンディは存在しなかったはずである。
 技術が発達することで我々は恩恵を受けるのだが、思わぬ副作用が生ずることが間々ある。デザインは、それに対処する必要があるのである。

 一昨年訪れたエジプトのアムン大神殿の壁にはレリーフの文字が並んでいた。その意味は私にはわからないが、指で凹凸を感じ取ることができるから、もしかすると盲目の方でも文字であることはわかるし、勉強すればいくつかは認識できるようになるのではなかろうか。モノクロ印刷よりずっと前の時代、まったく目が見えない人は、今より情報を得られたのかもしれない。
 これは多少こじつけの感がある推論であるが、会場に展示されていた、まったく木としか見えないようなアルミ表面の印刷、ジーンズ地に見えるプラスチック表面の印刷を見れば、視覚障害者の方が指先で把握できる情報が、印刷技術の進歩によって確実に減少しているような気がしてならない。
 デザインは、新たな課題をひとつ抱えたようである。(K. M.)