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実践女子大学 香雪記念資料館

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名品ギャラリー

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清原雪信【きよはら・ゆきのぶ】(1643 - 1682)

清原雪信(1643~82)は、江戸時代前期に活躍した狩野派の女性画家です。祖父・神足常庵と父・久隅守景はともに探幽門下四天王に数えられる高弟であり、また母・国は狩野探幽(1602~74)の姪にあたります。恵まれた環境が女性画家誕生の背景にあったことは想像に難くありません。神足姓の本姓である清原姓を名乗ることなどから、京都にて生まれ育ち、京都を拠点に絵画活動を行っていたと考えられます。雪信は画を探幽に学び、女性像を多く描いたことで知られますが、本図のような稚児や唐子といった童子を描いたものも多数伝存しています。

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作者  清原雪信
作品名 「菊慈童図」
制作年 17世紀
材質等 絹本着色・一幅
寸法(タテ×ヨコ) 96.0×36.1cm

 
[作品解説]
本図は静寂の中に凛とした緊張感をもった作品です。画題の「菊慈童」は中国・周の穆王に寵愛されていた慈童の伝説で、謡曲のほか、絵画や工芸でも長寿吉祥の画題、意匠として親しまれてきました。或る時、慈童が誤って帝の枕を越えるという死罪に値する罪を犯し、深山に配流となってしまいます。憐れに思った帝は、『法華経』八句の偈のうち「普門品」二句を慈童に与えました。慈童はこの二句を毎朝唱え、忘れないように傍らに生えていた菊の葉に書きつけておいたところ、この葉に溜まる露が霊薬の天の甘露となり、それを飲んだ慈童は不老不死の仙人になったという説話です。本図では垂髪の慈童が右手に野菊を持ち、右膝を立てて座る姿が描かれています。強弱のある衣文線と左右に広がる着物の裾は、三角形状の姿形に見せながら、丸みと緩やかな印象を与え、画面の重心となり安定しています。背後には薄墨の土坡、その奥に二種の白い野菊が描かれています。画面の右側からは没骨で滲みを入れた粗い筆致の松の幹が覗き、霞の合間より角張った枝を伸ばして余白の多い画面を引き締めています。画面右端には「清原氏女雪信筆」の落款に「清原女」の朱文印が捺されています。
狩野派のほかの作例から、構図や描法など基本的には探幽以降の、いわゆる江戸狩野風の様式で描かれたものといえるでしょう。整った構図と配置、限定したモチーフと落ち着いた色使い、柔和で品の良い人物像は本図の特色です。抑えられた表情も人物設定を理解してその心情を表わしているようです。画面構成、人物表現ともに完成度が高く、筆使いの熟達した様子からも、雪信が才能を開花させ活躍した円熟期の作品です。

徳山(池)玉瀾【とくやま(いけ)・ぎょくらん】(1727/8‐1784)

徳山(池)玉瀾(1727/8~84)は、明和5年(1768)版の『平安人物志』に「池無名妻、祇園下河原」と収録されているように、池大雅(1723~76)の妻で、名は町、号は玉瀾、松風、遊可などです。画ははじめ柳澤淇園(1704~58)に、後に夫である大雅に学びました。号の玉蘭は淇園の雅号、玉桂の一字を譲られたとされています。祖母は歌集『梶の葉』で知られる歌人・梶、母も同じく歌人の百合(1694~1764)です。祖母以来、京都祇園の茶屋、松屋を営んだと伝えられます。

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作者  徳山(池)玉瀾
作品名 「風竹図扇面」
制作年 18世紀
材質等 紙本墨画
寸法(タテ×ヨコ)50.4/21.0×18.2cm

 
[作品解説]
一幅の掛幅に二面の扇面、上に百合の和歌書、下には玉瀾の風竹図が添えられ、母と娘による書画の合装となっています。扇面はともにかつて骨付きの扇に仕立てられていた跡が残っています。百合の和歌書扇面には「恋わびてなみだの露のおきいつゝ 夜はすがらに袖ぞぬれそふ」の一首と「百合」の落款があります。玉瀾の風竹図は、激しい風にたわんだ二本の細い竹が、濃淡に墨色を変えた鋭い筆致の葉を踊らせています。扇面を、左下方から右上方へと横断する大胆でおもしろい構図です。中央上部、竹の葉の上に「玉瀾」の落款と「玉」「瀾」の白文連印が加えられ、右下方の余白に「松風」の遊印(朱文楕円印)が捺されています。
大雅と玉瀾に関しては、真偽取り混ぜて様々な逸話がありますが、門人の野呂介石(1747~1828)は、大雅が玉瀾に六畳の部屋を与え、自らは三畳程の狭い画室で絵筆を揮ったことや、窓から屋根の蔓が入り、食卓には雀が集まり遊ぶという脱俗で清雅な夫妻の日常を伝えています。そんな逸話からも、玉瀾の才能の開花に大雅の存在は欠かせなかったのでしょう。

谷文晁【たに・ぶんちょう】(1763‐1841)/谷幹々【たに・かんかん】(1770‐1799)

谷幹々(1770~99)は江戸の林家に生まれ、字は翠蘭、号は幹々です。16歳の時、いとこの谷文晁(1763~1840)と結婚しました。夫に画を学び、山水、花鳥を描きますが、寛政11年(1799)、30歳で早世したようです。谷文晁は宝暦13年(1763)、漢詩人の谷麓谷(1729~1809)の長男として江戸下谷根岸に生まれました。初名は文朝、字は文晁、通称は文五郎で、号は写山楼、画学斎、蜨叟、無二、一如などがあります。はじめ狩野派の加藤文麗(1707~82)に、次いで長崎派の渡辺玄対(1749~1822)に師事しました。天明8年(1788)田安徳川家の奥詰となり、寛政4年(1792)には白河侯である松平定信(1758~1829)付となります。南蘋派、南宗派、四条派など様々な画風を学び、諸派を折衷した画風を確立しました。

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作者① 谷文晁
作品名(上段)「江村晩晴図」
制作年 18世紀後半
材質等 絹本着色
寸法(タテ×ヨコ)16.5×18.0cm

作者② 谷幹々
作品名(下段)「雪景楊柳図」
制作年 18世紀後半
材質等 絹本墨画淡彩
寸法(タテ×ヨコ)17.7×18.0cm

 
本作品は、文晁と幹々の小品が合装された一幅です。文晁は画面右上に「江村晩晴 乙卯杪冬寫於寫山樓 文晁」の落款と「文」「晁」の白文連印を加え、これにより寛政7年(1795)12月、文晁33歳の時に描かれたことがわかります。水辺の景は、中国の元末四大家の一人、倪瓉(げいさん)がよく描いた幽亭秀木とも呼ばれる主題を文晁なりに解釈したものでしょうか。がっしりした遠山を背景に湖中の小島に育つ木々が描かれています。幹々の「雪景楊柳図」でも、雪に覆われた山の手前にごつごつした岩と葉を落とした柳の木々、浮かぶ小舟といった水辺が描かれ、雪の日の陰鬱な感じを小さな画面によく閉じ込めています。画面左側に「林氏幹々」の落款と「幹」「幹」の白文連印が捺されています。夫婦ともに水辺の景を描いており、関係深い作品と考えたいところですが、幹々の方が若干大きく、両者の法量が異なっているため、後世の人が一幅に仕立てた可能性もあります。

江馬細香【えま・さいこう】(1787 - 1861)

江馬細香(1787~1861)は大垣藩医、江馬蘭斎(1747~1838)の長女として、天明7年(1787)、美濃国安八郡藤江村(岐阜県大垣市)に生まれました。名は多保、裊、嫋、字は細香、号は湘夢です。文化10年(1813)、遊歴中、蘭斎を訪ねた頼山陽(1781~1832)に入門し、その後は美濃や山陽周辺の知識人たちと交流しながら、75歳で没するまで詩画の制作活動に励みました。

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作者  江馬細香
作品名 「蘭図」
制作年 文政11年(1828)
材質等 紙本墨画・二曲一隻
寸法(タテ×ヨコ)各29.0×64.8cm

[作品解説]
本図は、細香の作画活動の中で早い時期の作品の一つです。この時期の作品は、少ない上に制作年が不明なものも多く、年記を持つこの「蘭図」は画風展開を考える点で重要な作品です。細かな金の切箔を散らした地の上に、水墨の二図を貼り付けた二曲一隻の風炉先屏風で、清灑で凛とした趣をもっています。右の扇には蘭竹図が、左の扇には蘭図が貼り付けられています。
右図の蘭は葉が細長く一つの茎に複数の花がついていて、寒蘭や一茎九華と呼ばれる種類に近いでしょう。蘭の根本には低く横に広がる石が描かれ、幅広い筆跡や滲みで滑らかさが表現されており、その左奥には笹竹が生えています。全体に俯瞰的な視点をもち、蘭の葉は竹や落款に向かって流れるように弧を描きます。左図は、中央から右寄りに背の高い石が置かれ、その石の右前、画面の右下から一叢、石の左後方から顔を出すように一叢、蘭が描かれます。葉は太く、一つの茎に一つの花が咲く春蘭でしょうか。面白い形の石は、軽い筆使いで淡い色と表面の凹凸を感じさせます。蘭と石の重なりが奥行を作り、画面右下から左上の落款へと対角線上に伸びていく動きが感じられます。左右でモチーフや構図、墨の濃淡に変化をつけていることは明らかです。伸びやかな描写の中でモチーフのつながりを意識し、全体にリズムと流れがある構図は、モチーフ同士が調和し、受けとめ合うような安定感をもたらしています。
右図の右上に「戊子仲夏寫 細香」の落款、「江馬細香」の白文方印、左図の左上に「戊子蒲月寫 細香」の落款、「江馬」「多保」の白文連印があり、両図ともに文政11年(1828)5月、細香42歳の作であることがわかります。この蘭図は、山陽らの文人的な価値観による指導の下、素朴で力強い初期の画風から穏やかで瀟洒なものへと変わり、さらには自己の表現を追求していく過渡期の作品と考えることができるのです。

林珮芳【はやし・はいほう】(1799 - 1879)

林珮芳(1799~1879)は、紀伊藩(伊勢・度会郡)の地主・小林栄秀の三女として寛政11年5月14日に生まれました。名は小蝶、字は恋花、珮芳は号です。21歳の時に、伊勢・宮後の医者であり漢学者であった東夢亭(1791~1849)と結婚しています。

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作者  林珮芳
作品名 山水図巻
制作年 安政4年(1857)
材質等 紙本墨画淡彩・一巻
寸法(タテ×ヨコ)24.1×293.4cm

[作品解説]
山水の景は、中景の山並みから遥か左奥に遠山を望む構図から始まります。山並みは緩やかに右上から左下へと傾斜し、見る者をしだいに画中へと誘って行きます。水景が広がり、その間に帆掛け舟が三艘浮かんでいます。やがて左下に視線を移すと、近景の岩と木々が登場し、その岩陰で立ち話をする二人の高士のあたりより、道はさらに左へと続いて行きます。大きな岩の奥の懸崖の上の平らな台地には家が一軒建ち、酒旗のような旗が風にはためていています。道の左の岩の上には、三本の枝振りの良い立派な松が立っています。これらの松はほぼ巻物の中央に位置し、かつ最も目立つ前景を占めるので、さしずめ画面を総べる主役と言えるでしょう。松の樹陰に作られた川に臨む亭舎では、二人の高士が涼をとりながら談笑しています。川に沿って更に左へと進むと、対岸に洞窟のような奥まったところが現れ、やがて一人の漁夫が舟を浮かべているのが見えます。さらに左へ進んで岸から坂を少し登って行くと、木々の奥に隠れるように屋敷が現れます。これが山間に閑居するこの絵の主人公の住まいでしょうか。家の手前には紅葉、黄葉した木々が立ち、秋の気配を感じさせます。最後に「丁巳初秋寫 珮芳」の落款と「佩芳」の朱文方印があり、安政4年(1857)7月、珮芳59歳の作であることを告げています。
珮芳が具体的にどのように絵を学んだのかは作品自体から推し量るしかありません。伊勢を訪れた長崎の画僧・鉄翁(1797~1877)から直接画法を学ぶとともに、最新の中国山水画に関する情報を得たと考えられますが、長崎に来舶した清人画家で鉄翁の師であった江稼圃の影響が伺えます。山々の連なりや三角錐形の山、構成や筆致は江稼圃の他作品に近似しています。女性画家の中で、彼女ほど本格的な山水画を描いた画家は稀です。当時の一流の漢学者・漢詩人をも含んだ人的交流の輪の中にいたとはいえ、ほとんどを伊勢で暮らした一女性が、清の画風に精通した作品を作り出し得たのは驚異的です。
題を書いた斎藤拙堂(1797~1865)は、伊勢の津出身の儒者で名は正謙、字は有終、号は拙堂、鉄研です。津藩の江戸藩邸で生まれ、昌平黌で学び、24歳で津の藩校(有造館)の講師になっています。題の「貞筠抽箭潤璧懐山」は王融(中国・斉の詩人)の詩「贈族叔衛軍」からの引用です。跋を書いた小野湖山(1814~1910)は近江、高畑の医師・横山玄篤の長男で、本姓は横山、名は巻、通称は仙助、そして玉池仙史、狂老夫などと号しました。はじめ医術を修めましたが、梁川星巌が起こした玉池吟社の社友となり、漢詩人として天保年間初めに江戸に出て藤森弘庵(1799~1862)らに師事します。尊王攘夷思想を抱き、水戸の藤田東湖(1806~55)とも親交を結びました。安政の大獄で藩より謹慎を命じられ、読書や詩作の日々を送ったようです。なお、跋は別紙なので後跋か、別の場所で書かれたものを合わせて表装した可能性が高いと思われます。拙堂や湖山が書を寄せるに値する対象として珮芳を認識しており、このような交遊関係を生んだ幕末期の文化的な豊かさは非常に興味深いものがあります。

梁川紅蘭【やながわ・こうらん】(1804 - 1879)

梁川紅蘭(1804~79)は、美濃国安八郡曽根村(岐阜県大垣市)、郷士格の稲津家に生まれました。名は景、景婉、字に玉書、月華、道華、号は紅鸞、紅蘭などです。夫で勤王の志士たちに慕われた幕末の漢詩人、梁川星巌(1789~1858)とは、同郷で又従兄の間柄です。星巌は郷里に構えた居室を「梨花村舎」と名付け、文化14年(1817)に塾を開きました。紅蘭は14歳で入門して漢詩文を学び、文政3年(1820)に17歳で星巌と結婚しています。星巌とともに西日本を巡り、文政7年(1824)から京都に、天保3年(1832)から江戸に、弘化3年(1846)から再び京都で暮らします。星巌が安政の大獄(1858)直前に亡くなると、身代わりとして投獄され、出牢後は京都で私塾を開き余生を過ごしました。彼女は夫とともに、各地で漢詩文や書画によって暮らす人生を送っています。

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作者  梁川紅蘭
作品名 「秋卉舞蝶図」
制作年 天保5年(1834)
材質等 絹本着色・一幅
寸法(タテ×ヨコ)124.1×26.4cm

 
 
 
 
 
 
画面左下から右上に秋海棠が伸び、花の上には異なる種類の蝶が二匹、秋海棠のなす軸線から折り返すように左上方に向かって配されます。画面右上の「青棠婭能蠲忿 丹棘連娟解忘憂 一種人間好花草 西風膓断不勝秋」は星巌が書した題詩です。「合歓木はたおやかで人の怒りを除き、萱草(忘れ草)はあでやかに憂いを忘れさせる。このように人の世の美しい草花は、秋の風が吹く季節に咲き悲しい感情を催させる。」という意味で、この詩は天保12年(1841)刊行の『星巌集』丙集巻一「梨花村草舎支集」に収録されています。左中程に「張氏紅蘭」の落款と「梁」「張」の白文連印が捺されています。
天保3年(1832)、江戸八丁堀に住み始めますが、天保5年2月に起こった江戸の大火で住居は灰燼に帰し仮寓の身となってしまいます。同年4月、旧製の詩をもとに友人の藤井竹外(1807~66)のために制作されたのが本作品です。竹外は摂州高槻藩の藩士の家に生まれ、少年時代から頼山陽(1781~1832)に学び、山陽と親しかった星巌にも詩の手ほどきを受けていました。大火で焼け出された際にも手助けをしており、厳しい境遇のこの時期に竹外が何らかの援助をし、それが本作品の誕生のきっかけになったとも考えられます。
秋海棠は没骨で描かれ、グラデーションをいかして花びらの丸みを表わしています。下方の白菊は、淡墨のふくよかな描線で輪郭をとり、花びらの先端から中心へ淡くなるように白色を塗ります。花の間を埋める草々は黄緑・茶・藍の三色を用いて、上から下へ次第に色が濃くなるように配慮し、わずかに奥行表現が感じられます。茎から三本に分岐させて花軸をなす配置が『芥子園画伝』『八種画譜』等に見られ、画譜類を手本の一つとしたのでしょう。蝶は輪郭線を多用して緻密に描かれます。黒い蝶は翅の付け根よりに金泥を刷き、細い濃墨線で触角を描く一方、右手の蝶は輪郭を淡墨で、頭部と脚のみに濃墨を、翅の各所に金泥を用いており、細部描写に拘りが感じられます。
秋海棠の「棠」が「玉堂」を連想させることから、吉祥的な意味も考えられるでしょう。星巌の詩と、詩とは少し趣が異なる画題によって、多義的な読みを可能にする漢詩人夫婦ならではの機知に富んだ趣向かもしれません。

野口小蘋【のぐち・しょうひん】1(1847 - 1917)

野口小蘋(1847~1917)は、女性として初の帝室技芸員となり、明治・大正期に活躍した女性画家の一人です。小蘋は、漢方医の父・松村春岱(?~1862)と母・続子の長女として、弘化4年(1847)に大坂で生まれました。名は親、字は清婉、はじめは玉山、後に小蘋と号しました。幼い頃から絵を描くことを好み、14歳の頃から父母に伴われて席上揮毫しながら各地を遊歴しています。16歳で画家として自立しますが生活には苦労したようで、慶応年間(1865~8)には京都に上って日根対山(1813~69)に入門しています。明治4年(1871)に25歳で東京に上り、東京を拠点に地方を遊歴しながら本格的に画家として活動し始めます。明治10年(1877)には滋賀で酒造業をしていた野口正章(1849~1922)と結婚、翌年には長女・郁子(野口小蕙 1878~1944)が生まれました。山水画家として名が知られるようになるのは明治20年代に入ってからのことです。本図は画風、印章より小蘋最初期の作例と目されるもので、江戸末・明治初期に画業を始めた一人の女性画家の出発点を考えるにあたり、画題、様式、制作環境など様々な点で、非常に興味深い作品です。

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作者  野口小蘋
作品名 「設色美人図」
制作年 慶應2年‐明治元年(1866‐1868)頃
材質等 絹本着色・一幅
寸法(タテ×ヨコ)101.0×35.0cm

 
[作品解説]
無背景の縦長の画面に、左手に桜花の枝を携えた女性が独り立っています。面長の顔には、眉下から頬の広い範囲に薄紅が刷かれ、受け口気味の下唇には笹色紅が見え、化粧はやや濃厚です。結髪はつぶし島田で、鼈甲製の一揃いの櫛、簪、笄を挿しています。着衣は黒の無地と地味に抑えられていますが、裾に描かれた四季折々の花が華やぎを添えています。襟や袖口、裾からのぞく襦袢の赤と唇の赤が、着物の黒色地をひきたて、画面全体を引き締めています。明るい茶の地の帯には、青海波、麻の葉、檜垣、亀甲といった文様が丁寧に描かれ、その上に緑や朱色の楓の葉が散らされています。着衣には太い淡墨線による衣文の線によって陰影があらわされ、着物の内側の体の厚みを感じさせます。化粧の濃い無表情な顔と適度な量感をもった身体の表現が、本図の女性像に独特の生々しい存在感を醸し出しています。「親印」(白文方印)と「玉山女史」(朱文方印)が画面右下に捺されています。
ポーズや面貌、肩から胸にかけての量感のある人体描写や着物の太い衣文線などから、祇園井特らの上方美人画の影響が考えられます。江戸から明治へと時代が変わる過渡期の京都で、若き女性画家が描いたのは江戸時代風の美人画でした。ここには、後に、江戸文化から脱却し、明治の東京画壇で青緑山水画を得意とする女性南畫家として、頂点を極める以前の小蘋の姿があります。本図のどこか生々しく存在感のある女性像には、若き小蘋の画家として生きていこうとする強い覚悟と意志がうかがわれます。

野口小蘋【のぐち・しょうひん】2(1847 - 1917)

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作者  野口小蘋
作品名 「平安長春図」
制作年 大正3年(1914)頃
材質等 絹本着色・一幅 
寸法(タテ×ヨコ)108.5×36.6cm

 
[作品解説]
絹本に水墨で岩と竹、そして着色で薔薇が描かれています。岩の点苔は、墨以外に黄緑色、青緑色の二種を用いて、丁寧に変化をつけています。黄緑色の点は岩の右上部分にのみ、青緑色の点は部分的に用いられて、岩全体にわたる黒点と並ぶところもあります。墨線と点苔で細かい表面の凹凸を表わし、濃淡のある墨を面としても用いて、岩の立体感を見事に表わしています。竹の葉は墨色の濃淡を違えて、ところによっては墨を滲ませて大ぶりに描くことで、青々とした葉が重なり、茂る様が感じられます。岩の奥にのぞく竹の幹は、根元から先端へと太さと節の長さに調子をつけながら、清々しくしなやかに伸びています。薔薇の花びらは鮮やかな臙脂色で、輪郭をとらずにふっくらと柔らかな形をしており、花の中央には黄色の点と白い点で芯が表わされています。葉も輪郭をとらず、グラデーションで細かな変化がついています。薔薇の根元には、濃淡のある緑色の葉に墨の葉を重ねるようにして草が描かれ、奥行が感じられます。色彩の濃淡や変化、モチーフ同士の重なりによって、画面に複雑で深い広がりを作り出しています。
画中に「平安長春 小蘋」と自題、落款があり、「親印」(白文方印)と「小蘋女史」(朱文方印)を伴います。本作品は、共箱の蓋裏に「大正星次甲寅如月 小蘋女史自題」「親印」(白文方印)と自署があり、大正3年(1914)の箱書であることがわかります。ただし、同じ印章の組み合わせをもつ作品に明治30年代のものがあることから、作品自体はやや遡る時期の可能性もあるかもしれません。表装は、小蘋の印章を四種、霊芝模様とともに織り込んで配した布を用いた小蘋表装です。
本作品の「平安長春」は伝統的な吉祥画題で、災いを遠ざけ平安をもたらす竹と、四季を通じて咲く長春花(薔薇)を取り合わせ、一年中平安であることを示しています。竹の墨色と薔薇の紅色が鮮やかに対比されています。

奥原晴湖【おくはら・せいこ】(1837 - 1913)

奥原晴湖(1837~1913)は天保8年(1837)8月15日、古河藩大番頭の池田政明と妻・キクの四女として生まれ、せつ(節)と名付けられました。上級武士の娘として漢学や書画、武道の修練などの教育を受け、絵は谷文晁系の画人、枚田水石(1796~1863)に師事しています。古河藩は女性が藩を出ることを禁じていたために関宿藩の叔母の奥原家の養女となって、1865年に江戸に出ています。はじめ石芳、上京した後には晴湖と号しました。晴湖の号は、本名から家族に「せいこ」と呼ばれていたとも、来舶清人画家の費晴湖から得たとも言われています。明治初期の文人画流行の時代には人気作家となって門人を多数擁し、木戸孝允ら政治家にも愛好されましたが、文人画を支える環境の変化とともに明治24年(1891)、成田村上川上(埼玉県熊谷市)へ隠棲し、画室を繍水草堂、後に寸馬豆人楼と名付けて晩年を送りました。

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作者  奥原晴湖
作品名 「春色嬌艶図」
制作年 明治30年(1897)
材質等 絹本着色・一幅 
寸法(タテ×ヨコ)142.0×33.4cm

 
 
 
 
[作品解説]
紅色の大輪の牡丹の花が、勢いよく伸び上がるように右上に向かって咲き誇り、あたかもその牡丹と会話を交わすかのように黄色の蝶が羽ばたいています。その少し下方には、葉陰からそっと見上げるように白い牡丹が首を左に傾けて咲き、その花弁にも蝶が止まっています。二つの大きな花をがっしりと押し上げるように太湖石が描かれ、その陰からは青紫の牡丹が、やや下方に向けて花をつけています。岩の下の地面は画面右に向かって傾斜しており、画面右上の蝶から紅の牡丹、右下の青の牡丹、左下の岩の根本、右下の地面とジグザグに連なっていく構図が、画面にダイナミックな動きと緊張感をもたらしています。
画面左上に「暁来煙雨霽 幾朶殿春花 嬌艶態傾国 臨風一笑加」の自題詩、「丁酉冬日并題於繍水草堂 晴湖」の落款が記されています。その左に小さい印が縦に3個捺されており、上から「星古」(白文方印)、「小墨荘」(朱文方印)、「東海星滸」(朱文方印)です。画面左下には小さく「方外趣」(白文長方印)が捺されています。明治30年(1897)の冬に繍水草堂で描かれた作品で、晴湖の画業の充実ぶりを示す力のこもった作品です。
晴湖が残した大量の粉本類の中には、手控えとしての縮図帖もあり、中国絵画が多数写されています。また、晴湖自身も中国絵画を蒐集しており、中国絵画の学習を自分の作画へと活用したことが知られています。本図の制作に役立てられたと見られる中国絵画の縮図も残っており、基本的に原画に忠実でありながらも、本図では新たに蝶を上方に加えていることがわかります。この蝶によって花と呼応し合う緊張感のある画面を作り出しているのです。

河辺青蘭【かわべ・せいらん】(1868 - 1931)

近代大阪画壇を代表する女性画家、河辺青蘭(1868~1931)は、明治改元の年、慶応4年の元旦に、大坂の徳川幕府指定の銅の精錬業を営む裕福な家に生まれました。10代で画を学んだ後、独習し、各地の展覧会への出品・受賞を通じて名声を築き、富裕な商家に嫁いでからも画家として活躍しました。満州事変が起こった昭和6年に64歳の生涯を閉じています。名は元子(モト)、号は青蘭、碧玉、蕉雪軒などです。14歳から5年間、女性画家の橋本青江(1821~98)について文人画を学んでおり、江戸時代以来の大坂で栄えてきた文人画の伝統を受け継いだと言えるでしょう。東の野口小蘋に対し、西の河辺青蘭と並び称され、また、画塾を主催し、若い女性たちに文人画を教えています。

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作者  河辺青蘭
作品名 青緑松陰楼観図
制作年 大正9年(1920)
材質等 絹本着色・一幅 
寸法(タテ×ヨコ)140.4×42.1cm

 
 
[作品解説]
本作品は大正9年(1920)、青蘭53歳、その画業の充実を示す作品です。大幅とはいえませんが、彼女が追及した青緑画法による新しい文人山水画の魅力を十分に伝える作例です。発色の良い良質の群青を主とした美しい彩色に彩られた峰が、白い絹地に爽やかに映え、高い松に囲まれて静まる青瓦の精舎の朱塗りの柱や、白雲の縁をいろどるように山裾に挿されたオレンジ色の残照が、画面に華やぎを添えています。彩色は透明感があり、独自の軽やかな筆致と相まって、職業画家の硬く無機質な青緑技法とは異なる文人の青緑山水画となっています。ただし、文人水墨画に特有の皺を抑えて、大きな色面による彩色の変化や濃淡によって、そびえる山の立体感や奥行きを表現しています。皺よりも彩色を重視し、色面を中心に画面を構成する手法は近代日本画に近い感覚といえるでしょう。色の変化と素地の白を巧みに対照させながら、柔らかですががっしりと構築された山水を描いています。それは、旧来の日本の南画には見られない新しい感覚を伝統に融合させた画法であり、それを自らの手法として迷いなく描き上げているのです。
画中には「老翠掩天天鬱蒼 苔蹊鶴去静残陽 箇中不識何人住 萬樹長松護彩堂」の自題詩と、「青蘭画」の落款、「河邊元印」(白文方印)、「青蘭」(朱文方印)、「香自焚」(朱文楕円印/関防印)の印章があります。「濃い緑が空を掩いつくし、空は鬱蒼としている。苔むした蹊(こみち)は、先程までいた鶴か飛び去って、夕映えの中静まりかえっている。ここにはどういう人が住んでいるのだろうか。高い松の木々が色鮮やかな精舎をひっそり護っている。」という意味です。水墨山水画が主流になって以来、中国では青緑画法は、主に古代的な神仙世界を連想させる画題に用いられてきました。画中にいない鶴の存在は、そのような仙界を描いていることを暗示させます。また、山裾のオレンジや、そこここに点された明るい褐色は、残陽が辺りに満ちていることを伝えています。このように詩書画そろった正統的文人画として伝統的画題を描きつつ、新しい時代
の感覚を融合させ、端正で品のある美しい画境を確立したのです。書画ともに成熟と洗練を見せる本作品は、青蘭が試みた近代における文人画の一つの到達点を示す佳作といえるでしょう。

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