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スタッフインタビュー 影山 輝國教授

中国古代思想史 影山 輝國教授

中国古代思想史  影山 輝國教授

影山 輝國(かげやま・てるくに) 1949年生まれ、東京都出身。 東京大学大学院 人文科学研究科 中国哲学専門課程 修士課程修了。 国文学科専任教員の中でただ一人、漢文学・中国文学の授業を担当。 中国哲学が専門で、秦漢時代の哲学思想を研究対象とする。

お生まれはどちらですか?

生まれも育ちも渋谷です。

江戸っ子ですか?

祖父からですから、江戸っ子といえますか。住居は、実践女子中学・高校のすぐそばです。私の若い頃はまだ、実践女子大学もそちらにありました。渋谷というと、今は若いひとの多い繁華街のイメージですが、私の生まれたところの近所には國學院大學や青山学院もあって、文教地区なんです。

通われた学校もそのあたりに?

小学校は家の近くの常磐松小学校、中学・高校は目白の獨協中学と高校へ通いました。渋谷から目白まで電車通学でしたが、全然寄り道はしませんでしたね。今考えると、世間知らずだったんだな(笑)。

高校時代はどんな環境でしたか?

獨協は男子校で。名前に「獨」があるとおり、ドイツ語教育が母体の学校なんですね。なにしろフランスとドイツの国境地帯は「アルザス=ロレーヌ地方」(フランス語での発音)じゃなくて「エルザス=ロートリンゲン地方」(ドイツ語での発音)と習うくらいで。

学校はドイツ系ですが、ご専門は中国文学ですね。

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そうなんです。東京外大の中国語学科で中国語学を学びました。ただ、やりたかったのは中国古典で。東京外大じゃ勉強できないので、他の大学に入り直すことにしました。それで、学士入学で東京大学へ。東大には「中国文学」と「中国哲学」があったんですが、「文学」の方は新しい時代のものばかりだったので、「哲学」を選びました。

—進路はどう決められたんですか?

高校時代は国語がよくできましたよ(笑)。国文学科への進学も考えたんですが、高校の図書館にいた先生で、漢文が非常によくできる先生がいらっしゃってその先生に色々教えてもらったことが大きいですね。それと、当時、代々木ゼミナールに「白バラのプリンス」と呼ばれた、多久弘一という有名な漢文の講師がいて、その人の授業がおもしろくて。今でも、その先生が授業で使っていたテクニックなんかを使ってるくらいで。そのお二人に目を開かせていただいたわけですね。

やはり、大きいきっかけがおありなんですね。それで大学に入学されたのちは……

大学に入ったら(68年)学生運動が激しい時代で。授業もなくてアルバイトをしてました。夏休みから半年くらい、全学封鎖が行われていました。

大学では、サークルに所属されましたか?

ラグビー部(笑)。ポジションは、バックスの花形、スタンドオフでした。

国文学科では、山内先生もラグビー部ですね。ちなみに、わたくし(植田)も

学科でチームが組めるね(笑)。

大学では4年間、ラグビー漬けですか?

いや、5年間。1年のときの年度末に試験はあったけれど、授業も受けてないし、大学問題も解決してないから、受けなかったんです。だから、もう1年。

そして、東大に移られるわけですが…

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外大の先生に相談したら、東大に移ってもすぐは通用しないから、学部から入れ、と。外大を卒業してから、東大の3年生に編入しました。そのとき、志を同じくする松村巧(現和歌山大学教授)といっしょに。

東大ではどんな生活を?

徹底的にしごかれましたね。戸川芳郎先生(現東京大学名誉教授)が怖くて怖くて。発表の前日は戦々兢々、眠れなかったね。怒鳴る、というわけじゃないんだけど、変な発表をすると「帰耕するにしかず」って言われるんだね。これは、「学問を辞めて実家に帰ってしまえ」ということだね。ぼくは言われなかったけど。

東大の学部から大学院に進まれるんですね。

大学院の博士3年のときですが、東大駒場キャンパスから助手の誘いがあって。大学院を中退して、「国文学・漢文学」の助手に採用されることになりました。このときは楽しかったですね。本当なら二人で一室の研究室を与えられるはずなんですが、人員の都合で一人で一部屋をもらえたんですよ。そうしたら、ある教員から「自分は二人部屋なのに…」という恨み言を言われたりもしましたが(笑)。

東大の助手から実践に移られるんですね。

助手採用のときは「3年をめどに…」と言われたんですが、6年いました(笑)。実践女子大学には、やはりそちらからお呼びがかかったんです。そのとき、実践女子大学にいた中国文学の教員が在任途中で亡くなられて、その後任として。88年の4月です。もう実践に来て、20年になりますね。

実践で20年、ご還暦。そうそう、先生の特技であるお能も30年ですね。

画像イメージ「巻絹」

そうなんですよ。大学院生のころ、母校の獨協で漢文の講師をしてたんですが、同じ職場にいた歴史の講師の高畠純夫くん(現東洋大学教授)というのと仲良くなって。その彼が、「宝生流の若宗家が芸大を出てお弟子を取るので、いっしょに教わらないか?」と誘ってくれたんですね。彼はその宝生流宗家の親戚にあたるんです。どんなものかと舞台を見て、そのあと若宗家とお会いして、それが若いのに雰囲気のある方で、弟子につくことにしました。高畠くんも含めて何人かで始めたんですが、彼はやめてしまいました(笑)。

お能での思い出などありますか?

「巻絹」という演目を演じる機会がありました。私の役は、絹を届ける途中に音無の天神というところで梅に目を奪われ、そこで歌を詠んで、到着が遅れてしまい、それで縛られたところに天神の救いがある、というものです。そのとき、天神の役をされた老婦人が「せっかくなので、これを絵にしたい」と。で、その絵を湯島天神に寄贈したんですね。なので、受験生が湯島にお参りすると、私の描かれた絵も拝んでたんですよ(笑)。ただ、残念ながら先年、その絵は外されてしまいました。

話をお能から、先生のご専門の研究に戻します。ご研究はどういったことをなさってますか?

漢代の思想、特に災異思想なんかを、初めは研究対象にしていました。

災異思想って、なんですか?

古代中国では、天変地異が起こると総理大臣にあたる宰相がクビになるんですよ。不思議だなーって思ったのがきっかけですね。それが最初の研究論文になりましたね。

最近は、『論語義疏』のご研究ですよね

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『論語義疏』は中国の古典で、漢代からは下って六世紀くらいのものなんですが、日本にしか現存しないんです。中国では滅んでるんですよ。江戸時代に根本遜志というひとが、師匠の荻生徂徠に言われて足利学校にあるものを書き写して、刊行するんですね。それを中国の商人が買って故国に持って帰って大騒ぎになるんですよ。で、実はその『論語義疏』は足利学校だけじゃなくて、あちこちにあるんですよ。それを集めています。

内容はどういったものなんですか?

普通の論語注釈書ならば残さないような、荒唐無稽なものまでが残っていたりします。たとえば、孔子の弟子である公冶長が鳥のことばを理解できたとか。これは比較的知られた話ですが、もう一つ、誰も知らないような逸話が書かれています。それは、「張石虎、夷斉を難ず」という話。「夷斉」は伯夷・叔斉という中国古代の兄弟で、殷が滅んで周の天下となったときに「周の粟(ぞく)を食らわず」と言って、山にこもり薇(エンノドウ)を採って食べた、という有名な話があります。ところが、張石虎というひとが山でこの伯夷・叔斉に出会い、「周の粟を食らわない、というのなら、どうして周の草木を口にするのか」と言ったところ、二人は何も食べられなくなって餓死する、という注釈があります。これは、『論語義疏』にしかない。そういう不思議な本です。

中国文学や中国哲学の魅力というのはなんですか?

うーん…「人間を知ってる」ということですね。生きていく上で指針となるようなことがたくさんある、ということでしょう。春秋戦国時代になると、中国には大きな文化の花が開きます。そういった時代に書かれた書物には、およそ、今において起こりうるようなことは、すべて描かれているといってもいいくらいです。

実践女子大学の良いところってなんでしょう?

大きい大学の欠点や、小さい大学の欠点がないことですね。歴史はあるけれど、規模がそんなに大きくも小さくもないから、小回りがきく、というか。言ってみれば「中庸の徳」といったところかな。

実践女子大学でのおすすめってありますか?

そうですね、この時期(インタビューは前期末に行われました)だと、立川の花火が見られるね。天気が良いと、富士山が見えることも。

ありがとうございました。

(聞き手 助教:植田麦)