画像イメージ

ここからページの本文です

スタッフインタビュー 河野 龍也 准教授

日本近代文学 河野 龍也 准教授

日本近代文学  河野 龍也 准教授

河野龍也(こうの・たつや) 1976年生、埼玉県出身。 東京大学大学院博士後期課程修了。 専門は日本近代文学。

多趣味な少年時代

お生まれはどちらですか?

埼玉県と東京都の境あたりにある、新座(にいざ)で育ちました。三十数年間、住んでました。

今はご実家を出られたんですね。

実践女子大学に勤めることになり、通勤のことを考えました。実家も遠くはないのですが、この機会に出なければ、一人暮しの醍醐味を知らない人生になってしまいます。一人暮らしもしてみたかったので。この機会に出なければ、親に甘え続けてしまうことになるのもどうかと思いましたし。料理も自分でやってみたかったのです。

学校は、中学まで新座だったんですか?

そうです。子供のころの記憶というのは、新座のころのものばかりですね。

新座はどういうところですか?

都会にも近くて便利なのですが、武蔵野の雰囲気の残る田園地帯です。子供の頃は、林に秘密基地を作ったりと、絵に描いたような子供時代を過ごしてました。父親が建設関係の仕事をしていましたので、その指導を受けて、木の上にしっかりした丈夫な小屋を作りましたね。ただ、ちょっと遠いところにあって、気づけば誰かに乗っ取られてしまいました。木の上にあったから「ゲゲゲハウス」なんていう表札を勝手に付けられたり。結局、涙をのんで自分の手で壊しました。楽しくも、つらい思い出ですね。

お父様が建設関係のお仕事をなさってて、そういった理系の仕事に就こうとはお考えにならなかったんですか?

画像イメージ

今でも建物を見るのは好きですし、川辺で鉱物を集めるのも好きですが、歴史の本を読むことも好きで、趣味としては文系も理系も両方あったんですね。

ほかにも、先生はいろいろな趣味をお持ちですよね。天気図を書いたり。

それは中学の「天気図クラブ」のころですね。かなり多趣味だったと思います。切手や古銭も集めましたし、小学校時代は焼き物をしていました。新座焼というのがあって、その教室に通ってました。あとは、古墳ですね。

古墳は集めたり焼いたりするものではないですよね(笑)

近所に埴輪や土器のかけらの出てくる古墳があったんですよ。中学のころにその古墳の発掘が始まりましたので、調査員のひとに話を聞いて、自分でもいろいろ調べて、本を出しました。A3を袋とじにして30ページくらいにはなったかな?自由研究をまとめたんですが、新聞の地方欄で取材をされました。それを見た埼玉県立図書館から寄贈の依頼がきたので、送りましたね。

ほかにも、水泳をなさっていたり。高校時代はどうされてましたか?

物理部でラジオを作ってました。戦前のラジオの図面を集めて、それを復元するのが趣味でした。今年の四月に引っ越したときも当初はテレビがなかったので、高校時代に作った戦前のラジオの復元版で情報を得ていました。サバイバルという感じがして、久々に心が躍りました。

お話を伺ってると、理系コースに進みそうな少年時代ですが…

高校は浦和高校というところで、男子校でした。3年生のときに文系と理系に分かれるんですね。

で、理系には進まず。

物理部でしたが、科学そのものに興味があったというよりは、科学の歴史に興味があったんですね。文献を探したり、それを復元したりするのが好きだったんです。3年生になって、文系コースに進みました。文学に興味を持ち始めたのは、2年か3年のころでしょうか。

それはまた、どうして?

画像イメージ大学は英文科に進む

寂しいときに、たまたま手にした萩原朔太郎の詩に触れて、それがしっくりきたんです。哀しいときは、いつでも朔太郎を読んでますね。くやしいときも、そうです。

進んだのは英文科ですね。

いろいろ迷っていたことがあって。身近に研究者がいませんでしたし、研究する人生というのが想像できませんでした。また当初は、自分の好きなことだけをしてると可能性が狭まってしまう、という気持ちがあって、勉強をするために英文科を選びました。高校の恩師が英語の先生だったことも大きいと思います。

進まれたのは東京大学の文科Ⅲ類ですね。

1、2年は教養課程で、3年から専門が分かれます。そこで英文科を選んだんです。

英文科に進学なさいますが、サークルは…

書道部でした。小学校のころ書道教室に通っていたのですが、その後は間が空きまして、大学でサークルは書道をすることにしました。

サークルで、何か思い出に残っていることはありますか?

2年生のとき、軽井沢で合宿をしました。4時間ほどかけて鈍行で行きました。節約コースでしたね。民宿に泊まったのですが、まわりに商店がまったくなくて、夜の買い出しに困っていたところ、たまたま近所の別荘にいらっしゃっていた方に車で送っていただいて。金澤先生という方でしたが、実はその当時、岡山大学にお勤めで、金澤先生が横浜国立大学に移られたあと、岡山大学には実践女子大学に移られる前の山内先生がお就きになって…ひとの縁というのは、奇なるものですね。

国文学科がほこる能筆家、河野先生です。

いやいや(笑)。好きなのは、三筆と呼ばれた嵯峨天皇、橘逸勢、空海など、唐風が変化した日本の書風です。展示も、そういった書風のものを。

卒論はどういうテーマで書かれたんですか?

卒論はラフカディオ・ハーン、小泉八雲について書きました。担当の先生はジョージ・ヒューズ先生(東京大学元客員教授)というハーンの研究者で、考えてみれば、東大英文科の外国人教師というと、ハーンのずっと後任にあたるわけですね。毎週、書いたところをお見せしたら、朱を入れて指導をしてくださいました。かなり懇切丁寧で、文学研究の面白さを一から教わりました。今でも、学生の卒論を指導するときは、その先生のことを思い出します。

その後、日本文学に専攻を変えられるわけですが…

元々、日本文学をやりたかったので。高校時代に読書を始めたときのことを思い出して。大学院に進むということは研究者を目指すということですから、ここで好きなことをやるべきかな、と思ったんですね。

大学院に進もうとされたのは、どうしてですか?

画像イメージ佐藤春夫研究へ

前の大不況のころでしたが、就職活動もしました。そのとき、大学にきたけれどまだ勉強したりないな、と。本当に好きなことが、消化不良だったんですね。
大学院に進んでからもハーンの研究を続けたいと思っていました。でも、日本文学の大学院に進んだからには、日本文学の研究方法をしっかり身につけようと、ある時点から腹を決めました。
ハーンを日本文学の方法で論じる、というのは、従来の学問の枠では当てはまらないようなところがあるんですね。比較文学に移るべきか、とも思いましたが、ゼミで安藤宏(現東京大学教授)先生や先輩方に鍛えられるうちに、だんだんとやり方がわかってきました。文学は何より「表現」なのだという姿勢を学び、作品の言葉に粘り強く向き合うことの大切さが身に沁みました。ただの調べ物で終わらせないことは今でも戒めにしています。

英文科から日本文学科へと移るのにはご苦労もあったでしょうね。

そうですね。基本的なスキルが欠けていますから、ゼミの発表などでも勝手がわかりません。最初は苦労しました。日本文学での研究テーマもなかなか見つけられずにいたんです。それは、修士の1年目のころなんですが、年末、1999年の年末になって、台湾に留学していた友達から、気晴らしに年越しがてら、遊びに来ないか、と誘いを受けたことが転機でした。

「2000年問題」のときですね。

いろいろと噂されていましたが、年越しそばを買った位で、大きな備えはしませんでしたね(笑)。
淡江大学というところに留学していた友人が、先住民族の学生とともだちになっていて、その実家まで遊びに行くことになりました。台湾の中央山脈のまっただ中の集落まで。台中から4時間バスで入った霧社のあたりです。
そこで過ごした体験というのが、非常に印象的でした。祖父母の世代は日本語とタイヤル語、父母の世代は台湾語、子の世代は北京語と、ひとつの家族で得意とする言語がちがうんです。日本ではありえないことでしたから、大変に驚いて、台湾の歴史に興味が沸いたんです。帰国して、非常勤講師としていらしてた河原功先生の台湾文学の講座を受けて、佐藤春夫と出会いました。当時、彼が台湾に旅行をして、その多層的な社会の仕組みを旅行記の中で書いているんですよ。佐藤春夫といえば、谷崎潤一郎との関係で名のあがることが多いひとですが、台湾文学の世界では扱われ方が全然ちがうんです。そこで、これは面白いぞ、と。

偶然の連続で佐藤春夫の研究を始めることになったんですね。どういうひとなんですか?

佐藤春夫は大正から昭和にかけて活躍したひとで、様々な側面をもっています。小説家であり、画家、歌人、詩人、評論家で戯曲も書く。歌人として出発するけれど表現の幅が狭いということで、詩人になる。それも窮屈になって、小説家になる。小説家になろうとしたときは画家にもなろうとする。ひとつのジャンルに収まらない人間ですね。

多趣味なところは、先生にも似てますね。

ひとりの人間が表現をするのに、どうしてこれほど多様なジャンルにまたがってものを言おうとするのか、というのが今でも考えているテーマですね。かたちが内容を決めていく、このかたちでないと表現できないことというのがあるはずで、それが何なのか、ということを考えると、佐藤春夫という人物だけでなく、ジャンル論というか、もっと大きなテーマに突き抜けていくことができると思うんです。

一人メディアミックスという感じですね。

画像イメージ

それに、長生きをした作家ですから、まだまだ研究し尽くされていない。全貌がわかっていない、謎の作家です。最近は、台湾から中国へと渡ったときの旅行記を調べているのですが、新発見の連続で、これが面白いですね。

実践女子大学の日々

大学院を出られたあと、実践女子大学にいらっしゃる前は、東京大学の助教としておつとめでしたね。

助教としては、図書の管理やレファレンス業務、行事の差配、学生への連絡だとかをしていました。2年間勤めて、よい修行になりました。研究室で色々な人に出会うことができました。

そして、今年の四月から実践女子大学にお迎えすることができました。実践女子大学の日々は、いかがでしょうか?

非常に楽しいです。学生が気のいいひとたちですね。課題への取り組みがまじめだと感じました。坂の上にありますから、体力があるんでしょうかね(笑)。がんばりがきく学生が多いように思います。住宅街にあって落ち着いた環境だからでしょうか、「趣味が大学」という学生が多いような気もしますね。
建物がこじんまりとして綺麗で、使いやすい。それに、助手さんたちを中心にして学生へのケアが行き届いていますね。面倒見がいいな、と。教える側と教えられる側の距離が近くて、堅苦しさがなく、質問しやすい雰囲気ですね。

大学の施設で気に入ってらっしゃるところはありますか?

図書館ですね。開架の部分が多いのがいいと思います。貴重な本も気軽に使えますし。ラフカディオ・ハーンの初版本なんかも並んでいて驚きました。復刻版や全集・叢書がよく揃っています。古典籍の豊富さで知られていますが、近代文学研究をするのにもすばらしい環境です。

大学以外の時間はどう過ごされていますか?

家の近所には雑貨屋が多いんですが、愛らしい小物やフワフワの飾りのついたものが多くて、生活必需品もかわいいものばかりが集まってしまいます(笑)。そうだ。一人暮らしを始めたときに大正ロマンを求めて、ちゃぶ台、文机、タンスの三点セットをそろえました(笑)。

実践女子大の日々を十二分に楽しんでいらっしゃいますね。今日はありがとうございました。

ありがとうございました。

(聞き手 助教:植田麦)