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スタッフインタビュー 山内 博之教授

日本語教育 山内 博之教授

日本語教育  山内 博之教授

山内 博之 (やまうち・ひろゆき)
1962年生、愛知県出身。
大阪大学 大学院後期博士課程満期退学
専門は日本語教育。

名古屋生まれのスポーツ愛好家

まずは、お生まれを教えてください。

名古屋の出身です。高校まではずっと名古屋でした。

高校まではどういう生徒でしたか?

高校までは、全然勉強しませんでした。中学ではラグビー、高校では柔道をしていました。高校時代は「柔道一直線」という感じで、朝昼夕と、部活動に明け暮れていました。

学科の中でも、体格は一番がっしりなさってますね。文武両道ですね。

でも、当時の成績はすごく悪かったですよ。高校3年生で柔道を引退してから勉強して、急に伸びました。

柔道の成績はどうでしたか?伺っているところでは、かなり良い成績だったと…

県大会ではベスト4も何度か。当時は71キロ級でした…今は92キロですけど(笑)。

そして、高校3年生で大学受験をお考えになるのですが、そのときは、どういうふうに?

元々、教員志望だったんですね。中学生くらいから、中学か高校の先生になりたいな、と。そうすると、愛知県だと、やっぱり愛知教育大学です。なんですが、まず、全国区の大学に行ってみたいな、と。それで、教育関連では有名な筑波大学を考えました。

先生が入学されたのは「社会工学類」だそうですね。どうして教育系ではなかったのでしょう?

高校3年生のときでも教員志望は変わらなかったのですが、自分に、こんなふうな問いかけをしてみたんです。「自分は、教員以外の仕事をリアルに知っているのか」と。もっと、自分の知っていることの分母を広げて、その中から選択するべきなんじゃないか、と考えたんですね。それで、社会と数学の免許を取れて、社会だとか経済だとか経営だとかを学べるところへ進むことにしました。「色々食べて、それから好き嫌いを決めよう」ってことです。

学問に目覚める?

大学院の進学をお決めになったのはいつ頃ですか?

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大学の3年生の終わり頃ですね。ただ、本当に勉強ができなくなってて、「上」という漢字が思い出せなくなるようなありさまでした。
相撲部に入ってたのですが、栃乃和歌(現・春日野親方)や両国(現・境川親方)だとか、他大学の同期にはプロの相撲取りになって、関取になるのもいるわけです。高校時代の柔道でもそうでしたが、すべてを出し切っても自分はスポーツでは道を極められない、という挫折感があったんですね。それで、勉強を極めよう、と。勉強ではまだ、すべてを出し切ってない、と。博士課程への進学も、そのときに志しました。

そして、大学院に進まれて、どういう勉強をなさっていたんですか?

学部生の頃はラテンアメリカと日本の経営を比較して、修士に入ってからは「労働者の熟練がどのように形成されるか」っていう勉強をしてました。溶接工の熟練過程なんかについて研究してました。

今なさっていることとは全然違う感じがしますね。

そう思われるかもしれませんね。ただ、修士論文で書いた熟練形成の過程についての研究は、今やってる外国語教育の能力形成のパターンに似てるんです。
たとえば、目上のひとに対して「今日は素敵なネクタイをされてますね。それはどなたがお選びになったんでしょうか」と言い、子供に対して「ボク、あのね、なんでも食べないと、大きくなれないんだよ」と言って、相手を見て自分のアウトプットを変えることができるようになる、っていうのも、「能力の形成」という意味では、修士のころにやっていたことと、今やっていることとは、ぴったり一致しています。

その頃から、日本語教育も並行して勉強なさってたんですか?

いや、全然。ただ、外国に興味があって、外国と日本とで労働の熟練形成がどうなっているのか、というので、インドネシアと日本を比較してたんですね。それで、修士課程の当時、親がインドネシアに赴任していたので、そちらで調査をしたりする機会もよくありました。
日本語ができるひとを探してたりするうちに、現地の大学に出入りするようになって、なんだか、向こうの日本語学科で働かないか、と声をかけられたりもしました。

そこで「日本語教師 山内博之」が誕生した…?

いや、当時は日本の経済成長が世界的に注目されていたので、それを支えてる労働者の熟練を研究したい、という気持ちがあって、断りました。

人生の転機!

なるほど。そして、博士課程でも、そのご研究を続けられるんですね。

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博士課程は、大阪大学へ進みました。当時の阪大の経済は非常にレベルが高かったこともあり、環境を変えて、新しい勉強を進めたい、という気持ちがあったんですね。
ですが、博士課程の3年間は荒れていました。人生で一番荒れていた時期です。道がわからなくなっていたんですね。どう研究を進めたらいいのかわからなくなっていたんです。やる気はあるんだけれども、何をやったらいいのかわからない。すさんでいました。
そんなとき、博士課程の3年目ですが、日本語教師のアルバイトを始めたんです。当時、博士号を国内で取るのは難しくて、海外で取る、ということが多かったんです。元々外国も好きですし。でも、留学するお金がない。バイトをしなければならない。それで、海外で働く練習も兼ねて日本語教師を始めました。
アルバイト3日目にして、「これは面白い!」と思いました。

思いもかけないことから「日本語教師 山内博之」が誕生したんですね。

そこからは、今にいたるまで、迷いはまったくありませんね。彼女一筋、というか、思いは募る一方でまったく醒めたこともないし(笑)。

でも、それまでに築き上げたものや積み重ねてきたものを置き去りにしなければならないんですよね。とても勇気がいると思うんですが。しかも、バブル経済の絶頂期です。

大学院で学んでいたことに行き詰まりを感じていたこともありますが、外国語は元々好きでしたし、能力の形成を考える、っていうのは、ずっとやりたかったことなんですね。ためらいはありませんでした。

回り回って、中学のころに抱いていらっしゃった、教員志望のお気持ちは、ここで実現されるわけですね。

「これが『正解』だ」という気持ちでした。博士課程3年の冬に日本語教師の検定試験を受けて、合格しました。当時の勤務先ではまだ検定に合格した教員がいなかったので、すぐに専任として雇ってもらいました。

博士課程3年目で大学院を退学なさって、日本語教師としてスタートなさるわけですが…

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ところが、ちょうどそのときが、いわゆる「バブル崩壊」の時期で、日本語学校もたくさんつぶれてしまいます。僕の勤務先も倒産してしまいました。
でも、「なんとか、この仕事を続けたい!」という強い気持ちがありました。生活はどん底でした。財布に60円しかない、という日もありました。アパートの家賃は8000円。が、気分は明るかったですね。目的がはっきりしてましたから。あとは、絶対に倒産しない、どこか大きなところで勤めるか、それとも自分で日本語学校を作るか、と考えていました。

そして、その「どん底」から復活なさるんですね。

幸い、ほどなく京都外語大で、非常勤講師の仕事を得ることができました。それも、僕の生徒に助けられました。

どういうことですか?

僕が勤めていた日本語学校は小さくて無名の学校だったんですが、京都外語大に入学した留学生のトップとナンバー2が、その学校の生徒だったんです。その縁で、非常勤として呼んでもらえました。京都外語大では、自分の学問の師匠ともいえる、鎌田先生(鎌田修/現・南山大学教授)との出会いともありました。そのあと、岡山大学で専任講師として採用されるのですが、京都外語大での非常勤も続けていました。

実践女子大学に「日本語教育」を

そして、岡山大学から実践女子大へ。

岡山では、当時、ノートルダム清心大学にいた湯浅先生(湯浅茂雄/現・実践女子大学教授、学長)と知己を得ました。そのあと、実践女子大学へ来ることができたのも、湯浅先生のおかげですね。

今や、国文学科には、欠くことのできないスタッフとなりました。その「日本語教育」ですが、どんな勉強でしょう?「日本語を母語としないひとに、日本語を教える、その方法」ということだとは思うのですが…

日本語教育の研究といっても様々なんですが、僕がやっているのは、「言語学系」の日本語教育です。学習者に日本語を教えるのももちろんですが、学習者の日本語を見て日本語の体系を考えることで、言語研究に寄与するところもあります。両方必要ですね。

なんだか、欲張りな学問ですね。

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そうですね(笑)。「日本語教育」という仕事はあるけれど、そういう学問があるかどうかはわかりません。私にとっての日本語教育は、「日本語とは何か」ということを考え、最終的には「人間とは何か」ということを考え…ということになると、目指しているところとしては、文学を研究するひとと同じじゃないかな、と思います。

「国文学科の日本語教育」である所以ですね。その面白さ、というのは、どういうところでしょうか?

「日本語学」という学問体系はありますよね。学習者の視点からしても、そのひとの中にきれいな体系があります。作り上げられたその体系の美しさというのは、ほとんど神業のような気がします。

「日本語を母語としていないひとが、日本語を学んだときに、そのひとの中にできあがる日本語の体系」ということでよろしいですか?

そう考えてもらってかまいません。言語をいろいろな面から見るときの魅力を考えることができる、というところが面白さですね。日本語そのものの楽しさを、第二言語として習得さそして、もちろん「日本語教師の仕事が楽しい」ということ、その実践の楽しさもありますね。初級の学習者で、最初は一言もしゃべれなかったひとが、一年も経てば、明らかに成長する、というのは、なかなか楽しいものです。

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先生は実践に来られて10年ほどですが、実践の魅力とはなんでしょうか?

入学してくる学生が、「気持ちが優しくて人間味がある」ことが多いですね。「いいヤツだな」と思います。正直で、なんていうか、いやな思いをしたことがありません。僕も居心地がいいです。
それに、そうですね、学科として目指しているところが同じ、ということでしょうか。方法や入り口はちがっても。教員も、教育・研究、常に改善して前に進もうとしている、というのは、非常に良いですね。

ひとがひとを呼ぶのか、そういう磁場なのか、そういう学生ばかりが集まってくる、というのは不思議ですね。ところで、先生は毎日、徒歩で実践までいらっしゃいますね。

はい。家から一時間ほど歩いて来ています。毎日「いいな」と思って歩いてます。季節によって、同じ道でも表情がまったくちがいます。「寒いな!」と思った日に渡り鳥を見たり。鯉が産卵する時期は、川は明らかににぎやかですよ。冬になると川の色は深くなります。

では、最後に、若いひとたちに、何か一言をお願いします。

そうですね。「何でもいいから、熱中しよう」ってことでしょうか。勉強でなくてもいいです。何かを極めよう、って気持ちを抱いてもいいです。しかし、それすら感じないくらい熱中する、というのが、いいと思います。

そして、これからも日本語教育に熱中されるんですね。今日はありがとうございました。

ありがとうございました。

(聞き手 助教:植田麦)