本安永九年十月、大坂尼ヶ崎一丁目で医を業としていた秋成は、上洛して水無瀬川に遊び、また修学院離宮に参拝した。その折に成ったのが『水無瀬川』であり、この『藐姑射山』である。当時、秋成は四十七歳、現在残るこの種の和文のほうでは古い方に属する。
一方、『再詣姑射山』は、文化元年十月中旬、羽倉(荷田)信美らと再び修学院離宮に遊んだ折に成ったものである。
本学所蔵本の書誌
常磐松文庫蔵。巻子本。一巻。縦二五・四糎、横四〇糎(林鮒主書写『藐姑射山』九一・八糎、『再詣姑射山』の前半秋成自筆部分一五九・九糎、後半鮒主書写部分及び奥書一五五・〇糎)。亀甲に花織文深緑色表紙。題簽なし。見返しは、金砂子・金箔散らし。巻初に「実践女子大
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学図書館印」の朱印。箱は、縦二八・七糎、横五・九糎、高さ五・五糎。蓋の裏に、「奉拝観脩学院行宮両度之記 餘齋阮秋成翁述」(筆者不明)と直接墨書。小口に「秋成
/ 再詣 / 姑射山 / 巻物」とある紙片を貼付。
本巻子本の成立の経緯
林鮒主の奥書から明らかである。即ち、佐野雪満がたまたま『再詣姑射山』の前半の秋成自筆稿を入手し、鮒主のもとに持参したが、後半部は欠け、また『藐姑射山』の方も無いのを甚だ残念に思っていた所、幸いにも白井維徳が所持する別の秋成自筆本を見る機会を得、鮒主がその欠けた部分を補写したものだという。従って、本巻子本の秋成自筆部分と、その他の鮒主筆写部分は、厳密に言えば別系統の本文と言うべく、『再詣姑射山』の後ろの識語「七十六歳餘齋成しるす」も鮒主筆写部分の底本となった白井維徳蔵本の成稿年時のみを示していることになる。秋成七十六歳は、文化六年。この年六月二十七日に没しているから、白井本の成稿は最晩年のこととなる。一方秋成自筆部分の成稿はというと、書風から推して、これも文化五・六年頃であることに間違いない。
現在、『藐姑射山』は他に自筆本二種、『再詣姑射山』は自筆本一種が知られているが、混成の本文ながら、本巻子本は『藐姑射山』『再詣姑射山』の双方とも、現存の本文の中で最も遅く成立したものと推測される。
「調査報告11 長島弘明氏解題・翻刻」(『文芸資料研究所年報』 第4号)より抜粋 |