第20号(1998.7) 目次に戻る
学生に勧める本
大学生活文化学科教授 岡 野 治 子
様々な家電製品、交通手段の発達、携帯電話、外食産業、リッチな娯楽・レジャー施設などなど、社会の「近代化」が人類にもたらした贈物は計りしれない。だがこれで私たちは幸福になったのだろうか?近代化は数世紀にわたって人類の、特にアジア人の理想であった。しかし近代化が進行するところ、公害、差別など様々な歪みが露呈してきた。この社会的歪みこそ、近代精神の「申し子」でもあることは今日否定し難くなった。現代社会に異議申し立てをしたいあなたに、この一冊をお薦めしたい。
今村仁司著『近代性の構造「企て」から「試み」へ』講談社 1994年。
今村氏が語るように、自由、権利、正義の理念と身分・階級制から解放された市民社会を創出したことは近代の成果である。しかしひたすら「非理性」、「非合理性」を排除してきた近代精神は、病的なまでに「正確さ」や「秩序」にこだわることになる。政府や官僚による管理システムの現出がその良い例であるという。ヒトの平均寿命、生涯の労働時間が「何時間何分」で表現される。人間の生活や自然の営みまでが数量的に処理される機械論的世界理解の構図が生まれたのである。このように管理システム化した社会は、国民国家を単位とするために、同化と排除の論理(国民と外国人)を駆使して、市民の帰属意識、すなわち同質者としてのアイデンティティを確立させる。「自分たちはここの幸福な市(国)民」というアイデンティティの確立は、切断線を引いてその向こう側に異質な他者を立たせることになる。差別は近代精神が必然的に生み出すものでもある。アドルノ、ベンヤミン、ミシェル・フーコーなどの近代批判の思想に依拠しながら、近代精神の持つこのような暴力性を分析していく今村氏のこの書は迫力があり、説得力がある。
ここ数十年来私が追いかけているフェミニズムの問題、また社会的弱者の問題もその多くはこうした理性と合理主義を偏重する近代思想の産物でもある。近代精神は要するに「あいまいさ」や多様性を秘めた原初的「混沌」を許さない。子どもの世界、生命の誕生・育成に関わる母性、家庭での憩い、レジャーまでがマニュアル化し、あるべき姿、計算され尽くした様式に向けて管理される。「子どもらしくない」子ども、「母らしくない」母が糾弾されるように、産業社会では心身障害者や老人が「お荷物」になる。産業社会とは、「健常者」の共同体であり、そこに切断線が引かれる。そこからはみ出る人々は、「健全な」市民による恩恵としての福祉の対象者となる。
しかし現実に「子ども」、「学生」、「母親」、「サラリーマン」、「老人」などという概念でまるごと一括りされるような人々がどれくらいいるだろうか?「学生である以前に私は私なのだ!」ではないだろうか?個性を尊重するとはそういうことだろう。この個性尊重の視点を欠いたヒューマニズムや種々の倫理は、まやかしである。もう一つ踏み込んで言えば、健全な市民から成る市民社会というのは幻想に過ぎず、現実は、か弱く、惑いやすい一人一人の人間の集団であることを再認識すること以外に、近代精神の陥穽を越える法がないように見える。 今村氏も言う。「いずれ度しがたい人類のメンバーであるなら、度しがたさを確認するところから出直す方がよい。・・・犠牲者づくりが社会的人間のつとめならば、われわれ自身が犠牲者になろう」。地球的規模に存在する弱者も含めて人類の共生を語るなら、この覚悟、この視点がなくてはならないだろう。女性の視点から果敢に近代批判を行ったシモーヌ・ド・ボーヴォワールの作品も併せてご紹介しておきたい。
生島遼一訳『第二の性』新潮社1959年。
朝吹三吉訳『老い上・下』人文書院1972年。