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歌子先生 英国巡り会い1

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 前号の『学祖下田歌子先生を顕彰する』の報告に続き、連載の御依頼を受け、歌子先生の英国での巡り会いについて、皆様にお伝えしたいと思います。
 昨年、実践女子学園にPJ 研究下田歌子研究所が発足、様々な下田研究における架け橋となるよう、11 名の研究員が広く社会に発信する活動を始めました。先生の訪問校については、機関誌『うた子だより』に連載し、文学部紀要でも詳細な報告をご覧になれます。 
 ここでは英国のそれらの訪問校で、歌子先生が出会い、影響を受けた人々について、一人ずつ紹介しましょう。
 その一人目は、オックスフォード大学サマヴィル・コレッジのアグネス・メイトランド学長です。
 オックスフォード大学は国立大学であると同時に、学寮ともいうべき35の私立コレッジを併設し、英国でもオックスフォード大とケンブリッジ大に特有の個人指導と食住を中心とする組織で構成されています。
 サマヴィルは、オックスフォード大の共学の名門コレッジの1つですが、1879年にサマヴィル・ホールの名称で、オックスフォード大学初の女子学寮として創設されました。マーガレット・サッチャー元首相やノーベル賞受賞者等、多くの出身者が活躍しています。
 アグネス・メイトランド女史はその二代目の学長として、歌子先生を温かく迎え、彼女の学長ロッジに二泊、先生は滞在し、視察しています。
 二人の出会いは、1895 年5 月21 日である事が、英国現地調査で判明しました。翌6 月に日本への帰国を控え、歌子先生は多忙な中、予定を調整しての訪問であることが、先生直筆の英文書簡( 前号で紹介) からもわかります。
 この当時、オックスフォード大でも、女性の卒業資格は、認められていませんでした。女子学生達は講義への出席、試験の受験、そして卒業資格試験の受験といった様々な権利を、「徐々に」闘い、勝ち取っていったのです。理性ある女子高等教育実現のための改革の道は遠く、女子学生達だけでなく、多くの人々の努力を要するものでした。
 歌子先生訪問の前年の1894 年に、メイトランド学長の下、サマヴィルはホールからコレッジへと、名称変更をしたばかりで、改革の真最中でした。

アグネス・メイトランド学長アグネス・メイトランド学長

 彼女は歴代の学長の中でも別格であり、彼女自身がサマヴィルそのものであると言われる程、コレッジ精神を受け継ぎ、その伝統に新しい息吹を吹き込んだ人物といえます。リヴァプールで生れ、そこで既に数年間、家庭経済や料理の授業もし、本も出版していました。自ら心に決めたことを熱心に説くタイプの人でした。1889 年に学長に指名された時は40 歳で、優れた管理・運営能力、判断の的確さ、そして熱意と、発展途中のコレッジにとって、必要な能力をすべて備えていました。
 歌子先生は、「学文あり、見識あり、且つ、最も交際に熟して、其儀式的敬神の容態、更に点打つべき所無し」と、彼女を高く評価しています。
 寄付を募り、正門や学生寮・食堂等の増築を行い、オックスフォード大としても女子コレッジとしても初めて、学生に解放された図書館をつくります。学生数も寮が満室になる程増え、学生とスタッフの大きな信頼を得ていました。こうしてオックスフォード大学において、女性がdegree を勝ち取るための「闘い」の過程を、その真髄を、歌子先生はサマヴィル・コレッジで目撃し、体験したのです。
 歌子先生は、施設・設備の他、組織・学則・個人指導カリキュラム・学生数・学生生活・授業料など入念に調べ、資料を日本に持ち帰っています。それらは帰国後、1899 年実践女学校創設に様々な影響を与えました。そうした意味でサマヴィルは、実践のルーツのひとつと言ってもよいでしょう。
 メイトランド学長は、こうした改革の後、1897 年病に倒れ、その後復帰しますが、1906 年引退し、その年に57 歳の若さで逝去します。17 年間学長として情熱のすべてを女性のための理性ある高等教育実現に注いだ生涯でした。
 歌子先生は1895 年8 月帰国し、その4 年後、実践女学校を開設します。
そこには、サマヴィル・コレッジ視察の体験と資料が活かされ、メイトランド学長をはじめとする女性の高等教育実現に努力した人々の夢が、しっかりと受け継がれています。

大関 啓子 プロフィール
中学校から大学院修士課程まで実践を卒業。
その後、学習院大学大学院博士後期課程を経て、ケンブリッジ大学客員研究員。現在、実践女子大学文学部英文学科教授、実践女子学園PJ 研究下田歌子研究所所長。国際チョーサー学会会員および日本中世英語英文学会会員。著書『中世英国ロマンス文学—ケルト逍遥』他。

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