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歌子先生 英国巡り会い2

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 前号に続き、下田歌子先生が1893-5年の欧米視察で出会い、大きな影響を受けた人物をご紹介致します。
 近代女子教育のパイオニアとして、英国でその名を知らぬ者はないと言われるほど有名なドロシア・ビール校長です。チェルトナム・レディーズ・コレッジは、英国において理性ある真の女子教育実現の、夢の舞台ともいえる学校。彼女は傾きかけていたコレッジの二代目校長として27歳の若さで赴任し、私財と大いなる努力を注いで、多くの難題に取り組み改革を行い、傾きかけていたコレッジを、英国で最高の女子学校につくり変えました。
 1865年に、ビール校長は、女子教育と学校の改革には、次の3つが必要であることを表明しています。第一に講師の質の向上、第二に学校の視察調査、第三に仕事の改善。この意見に基づいて、国中で女子教育改革運動が展開していきました。前号でご紹介したオックスフォード大学サマヴィル・コレッジもそのひとつです。
 歌子先生が、ビール校長を、チェルトナムに訪問したのは、1895年5月27日であることが、一昨年の現地調査で明らかになりました。月曜日の早朝に、歌子先生はロンドンを発ち、当時の列車で2時間ほどかけてチェルトナムに到着。以前からビール校長に招かれていましたが、日本への帰国を翌月に控え、多忙な毎日を過ごしていたため、何回も訪問予定を変更して、やっと実現したのです。元々コレッジに数日滞在するはずが、急用でロンドンに戻らねばならず、数時間だけの滞在時間を、二人は惜しんで、初対面とは思えない程親しく語り合いました。
 この時歌子先生は心の中で、帰国後の日本に、一般女性のための学校を創設しようと決心していました。華族女学校の学監を務めていた先生の、欧州視察の当初の目的は、明治天皇の二人の内親王教育の準備でした。しかし、ロンドン滞在中に、日清戦争が勃発し、日本の前途に危機感を覚えた先生は、一般の人々の教育こそ、日本の将来を左右するものと考えました。「日本の百年の善後策」の一つとして、男子よりも遅れていた、一般女性のための教育を実現しなければと決心したのです。そこで、急遽、英国でその夢を実現していた先駆者のビール校長を訪問しました。

ドロシア・ビール校長(CLC 所蔵) ドロシア・ビール校長(CLC 所蔵)

 当時のコレッジは設立後41年経ち、ビール校長になって既に37年目を迎え、設備も環境も十分に整い、オックスフォードでのさらなる高等教育を実現しようとしていた時でした。歌子先生の求めに、ビール校長は快く応じ、この僅か数時間の滞在時間に、教育から経営に至るまで、自らの経験から、あらゆる情報と知識を、先生に与えました。さらにロンドンに帰宅後も、歌子先生の質問と求めに応じて、何度も手紙を送り、彼女の持つすべてを伝授しています。残念ながら、ビール校長の手紙は残っていませんが、歌子先生は、感謝の念をその書簡と著書に記しています。「この老女博士の徳望、甚(はなは)だ最良(いみ)じきも宜なり。其容貌態度、極めて、温厚、謹恪にして、其客を愛する親切懇篤至らざる所なし」*1と。

 ここに至って、歌子先生の心を固く閉ざしていたキリスト教嫌いは、その片鱗も窺う事はできません。二人の間には、宗教や習慣、言葉の違いを越えて、女子教育の理想の実現を目指す者同志としての、深い交流と共鳴が感じられます。この時、ビール校長から得た数々の資料とアドバイスは、歌子先生の帰国後、1899年実践女学校の創設に様々な影響を与えました。二人の対面から11年後、ドロシア・ビール校長は病に倒れ、1906年秋、75才で亡くなったため、二人はこれ以後再び会うことはありませんでした。その葬儀はロンドンのセント・ポール寺院で行われ、国葬級の多くの人々が参列し、その墓はグロスター大聖堂にあります。しかしビール校長の、跡を継ぐべき子もなく、ただ学校と生徒を我が子として、女子教育の理想に生涯をかけた姿は、後に実践女学校の校長としての歌子先生自身の姿に等しく重なり合うものがあるように思います。

*1下田歌子「泰西所見家庭教育」(1901)

大関啓子 プロフィール
中学校から大学院修士課程まで実践を卒業。その後、学習院大学大学院博士後期課程を経て、ケンブリッジ大学客員研究員。現在、実践女子大学文学部英文学科教授、実践女子学園PJ研究下田歌子研究所所長。国際チョーサー学会会員および日本中世英語英文学会会員。著書『中世英国ロマンス文学—ケルト逍遥』他。

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