沿革
下田歌子小伝
岐阜県岩村に生まれ育って
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| 詩稿(11歳) |
※〓は金へんに柔
失意と貧困の暮らしのなかで、両親は鉐を優しく育み厳しく教育します。それに応えて鉐は、幼いときから和歌や俳句、漢詩、日本画に秀で、桜田門外の変に「桜田に思い残りて今日の雪」と詠んだのは6才のときでした。江戸は明治と変わり、祖父と父は政府の招聘を受けて東京に出ますが、17才になった鉐もそのあとを追って上京します。そのとき、故郷の国境、三国山の峠で、鉐は「綾錦着て帰らずは三国山またふたたびは越えじとぞ思ふ」という歌を詠んでいます。岩村町はこの歌を石碑に刻んで、下田歌子の数々の事跡とともにその生誕地に顕彰しています。
上京して「歌子」誕生─教育者への道─
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| 春月(18歳) |
その後歌子は宮中を辞し、下田猛夫と結婚して下田歌子となります。猛夫の早世によって短い結婚生活は幕を閉じますが、宮中で才女の誉れ高かった歌子には教育者としての期待がかかり、明治18年には当時新設された華族女学校の教授に迎えられ、翌年には学監に就任します。そしてその傍ら、2人の内親王の教育掛かりの命を受け、そのために先進諸国の女子教育の状況を視察するため、欧州留学を命じられます。
実践女学校の創設とその理念
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| 私立下田学校開業上申書(明治15年3月) |
帰国した歌子は華族女学校を組織替えした学習院女子部の教授に就任し、後には女学部長を兼ねることになりますが、明治31年、帝国婦人協会を組織し、その会長に就任します。帝国婦人協会は、これまで上流婦人に偏っていた婦人団体の組織を広く一般に開放した全国的組織であり、その目的は「新時代に生きる女性の教養とそれに裏付けられた実践力を身につけ、生活と社会の改善をはかる」ことにありました。そしてその一環として、明治32 (1899) 年に実践女学校と女子工芸学校が創設されました。現在の実践女子学園の直接のルーツはここにあります。
深い日本的教養と欧州留学で培った思想を併せ持った下田歌子は、自らの教育にかける信念を、「実践」という理念を校名に冠することによって表明しました。20世紀を目前にして、新しい世紀に相応しい女子教育に情熱を傾け実践してきた下田歌子の精神は、21世紀を迎えたいまもこの学園に受け継がれています。


