tachi's COLUMN

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マンションが建つこと(2004.03.19)

  さて、前回述べたように、最近マンションに住むようになったのですが、それはニュータウンの片隅のようなところにあります。周りをぐるっと見回してみたり、ちょっとその辺りをふらりと散歩してみると(あるいは、車でがーっと移動してもそれほど事情は変わりませんが)、見える景色として周囲はすべて集合住宅ばかりということで、何とも不思議な感じです。ニュータウンというところは集合住宅のデパートのようなところで、本当にいろんなタイプのマンションが建ち並んでいますが、一軒家というのは、ちょっと離れた一軒家エリアに行ってみないと出会うことになりません。

 また買い物といえば、駅前の大きなスーパーか、車でちょっと遠くまで足を伸ばしたところにあるスーパー、という感じです。個人商店というものがほとんど見当たらないんですね。ニュータウンに生まれ育った子どもには、八百屋といっても理解できないようです。確かにふつうの生活圏の中に、八百屋も魚屋も肉屋も豆腐屋も見ることはありません。かろうじて、パン屋・ケーキ屋・クリーニング屋くらいなものでしょうか。それからニュータウンの子どもはもう一つ、「塀」というのも理解できないようです。言われてみると、これも確かに見当たりませんね。

 そんなニュータウンに暮らしていると、けっこうニュータウン地域の住宅情報が頻繁にポストに投げ込まれていきます。中古の物件情報がよく出回っていますが、ニュータウン地域内での転居が、どうやらけっこうふつうに行われていると聞きました。手狭になったので少し広いところに住み替えたり、ちょっとでも都心寄りに移り住んだり、子供が独立するので新しい住宅を探していたり、それでもニュータウンから抜け出ることなく転居する人というのが、決して少なくないようです。規模もさまざま、テラスハウスからメゾネットから2世帯型まで、選択肢の幅については、既存の町中で探すよりも圧倒的に豊富な気がします。とくに中古物件のほうが新築マンションよりもバリエーションがあるのではないでしょうか。  徐々に枯れてきているとは言え、まだニュータウンの片隅のほうでは、新しい巨大なマンションがどんどんと建ち上がっています。でも不思議なことに、新しいマンションのほうがどれも似たり寄ったりに見えるんですね。住戸の設備はピカピカの最新式で良いかもしれませんし、オートロックで共用施設も充実しているかもしれません。でも、ニュータウンに建っているマンションをみても、駅前の利便性抜群のマンションを見ても、河原のビッグプロジェクトのマンションを見ても、規模は多少違うかもしれませんが、ほとんど同じような感じです。それぞれの物件のウリは、マンション自体の規模であり、共用施設であり、最新設備であり、収納であり、眺望である。駅やスーパーに近ければ利便性が、公園に近ければ緑がウリになります。でも空間そのものの魅力や、新しい住まい方に対しての提案などは、ほとんど皆無といっていいでしょう。このマンションが建ったことで近隣地域の価値が上がった、ということも、当然ながらウリにはなっていません。

 最近この近辺でも、河原などのあまり利用されてこなかった土地や、工場などの立ち退いた跡地、既存の町中のまとまった土地などに、どんどん巨大プロジェクトが進められているように思います。600戸だの17階建てだのと、壁のような建物が建ち並ぶことになります。ニュータウンのような一面のマンション群のなかでは気にならなくても、通常の戸建て住宅地の中に現れた場合、風景が一変してしまいます。やたらと巨大で威圧的な存在ですが、オートロックで閉ざされており、垣間見える楽しそうな中庭や子供たちの遊べるキッズルームなどは、住人以外の人が立ち入ることはできません。

 このような巨大なマンションほど眺望をウリにすることがありますが、この眺望は、そのマンションが建ってしまったことで、それまでその眺望を共有していた人たちから、奪い取ったものかもしれません。国立で高層階を撤去するよう言い渡されたマンションの判決がありましたが、これなどはまさに周囲から景観や眺望を奪い破壊しておきながら、そのマンションのみがその景観や眺望を堪能することができる、というマンションの傍若無人ぶりに対する批判だと考えられるでしょう。地域を分断するような大規模なものを建て、自分たちの領域は囲い込んで入れないようにしておきながら、地域の持つ利便性や景観を一方的に利用し尽くすという、きわめて非対称な関係を共用する存在だったりします。何百戸という世帯が急激に増え、保育園や幼稚園が足りなくなる、小学校のクラスを増やさざるを得なくなる、しかしそのことについてはマンションとしては何の対応をとることもしないのです。

 かつて公団などの集合住宅計画では、住宅をつくるだけでなく商業施設や教育施設などの生活インフラのことをつねに考えており、公園や中庭、散歩道など、共同で利用する空間への配慮がなされていたように思います。もちろんすべてがうまくいったわけではなく、運営に行き詰まったり荒れ果ててしまったところも少なくないのですが、では何もそれらのことについて考えずに勝手に開発したほうが上手くいくとは言えないはずです。地域の中に、巨大でその存在感を見せつけるように建設されたマンションも、周りに悪い影響ばかり与えて知らんぷりをするような存在になるのではなく、本来は、それができたことによって周囲の地域全体が豊かになるようなことを考える必要があるように思います。

 地域の豊かさは、ふだんあまり意識せずに気付きにくいところに蓄積されていることがあるように思います。それは、その地域の歴史だったり、ちょっとした街角広場だったり、路地から垣間見える景色だったり、八百屋の親父だったりするかもしれません。もともと地域資源の乏しいニュータウンのようなところでは、八百屋や塀を知らない子どもたちも多いかもしれませんが、里山などの自然的な資源はまだずいぶん残っているようです。せめて、今あるさまざまな地域資源に致命的な影響を与えないよう配慮した計画を考えていきたいものです。


2003-2004, Space Design Laboratory, JISSEN Univ.