tachi's COLUMN

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歴史に囲まれていること(ウィーンその1)(2004.07.19)

 「芸術の都」とは随分使い古された言い回しですが、来てみると確かにそのように思わざるを得ません。ウィーンも初めてならヨーロッパも初めての私にとって、初めて見て触れたときのこの西洋の古い都市の環境はかなりの衝撃を与えるものでした。とくに町の中心部の密度には圧倒されるものがあります。

 まずは何と言ってもその街並みです。ホテルを一歩出ると、そこには5〜6階建ての建物が荘厳なファサードを見せながら連なっています。特別な建物ではない、ふつうに商店をやっていたりアパートだったりする建物が、規則正しく窓が配置された3層構成のファサードで、何とか様式の細かい装飾がびっしりと施されていたりするわけです。おそらく100年も200年も昔からほとんどその姿を変えずに、でもふつうに使われてきているのでしょう。モーツァルトゆかりのフィガロハウスというところに行ったときに、当時の街路の絵が飾られたりしていましたが、そこに描かれた200年前の街並みが現在とほとんど変わっていなかったりするのは、やはり驚くばかりです。

ウィーン街並 グラーベン通り

 そして町を歩いていると、ときおり古い教会が突然目に飛び込んできます。絵に描いたようなゴシックやバロックの教会建築が町の中にふつうに建っていて、そして教会のファサード側には必ずと言っていいほどきっちりと広場がとられ、教会の顔を正面から眺められるようになっています。中にはいるとまた、垂直性の強い室内に、これでもかというくらい装飾が施されていて、その密度に圧倒されます。教会は基本的に中に入って見学するのは自由なようで、ただしときおりミサが行われているときには、見学者は中のほうまでは入れない、という仕組みのようです(当然ながらミサ参加者は自由に中に入ることができます)。

 観光資源であるという意味もあるのでしょうが、しかしウィーンの市民はこれらの古典的な建築群のなかで、それらが特別な物としてではなく、日常的な環境として自分たちのまわりを取り巻かれながら、さまざまな意味で影響を受けながら生活を送っているのです。いい悪いは別にして、これらの厳密に規定された装飾文化とでもいうものが体の芯まで染み込まざるを得ない、あるいは、感覚の次元まで長年の歴史の蓄積を背負わざるを得ない環境とでも言えるでしょうか。

  ペーター教会内部

 それから美術館やら博物館もなんだかやたらとあるような気がします。多くの美術館では(といってもそれほど見たわけでもありませんが)部屋に椅子が配置されて、休みながらゆったりと見て回ることができます。美術にはとんと疎いながらも、いつかどこかで教科書で見たような絵が次々とガラスケースに入れられることもなく展示されており、それらを押すな押すなの行列をすることもなく、のんびりと見て回れるということは、やはり一つの懐の深さのようなものを実感します。とにかく本物に触れることに対するアクセシビリティはかなり高いのではないかと思われます。

 もう一つ重要なことは、ウィーンはこれらのような古典的なものばかりが蓄積された遺跡のような町ではないということです。近代以降の新しい動きや、現代の最新の試みまでが、町の中に息づいています。現代芸術の展覧会の広告があちらこちらにやたらと貼り巡らされています。ゼツェッション館、ワグナーの一連の建築、ロースハウスなどは、町の資源(観光資源でもありますが、ふつうに使われている)としてなくてはならない存在感を示しています。もっと新しいフンデルトヴァッサーの一見特異な建築も、町の中で暖かく受け入れられています。これらのワグナー・ロース・フンデルトヴァッサーなどは、ウィーンの誇るべき名士とでも言えるような、非常に高い扱いをされているように思いました。たとえば東京に、東京の誇るべき建築家や建築といったものが果たしてあるでしょうか。

ロースハウス 郵便貯金局

 それにしてもロースハウスなんて教科書の白黒の写真を見ていただけでは、ただの殺風景なコンクリートのビルに見えていましたが、実際に見てみると全然違う。何の変哲もないようでも、ディテールは細かく工夫されているし、仕上げも美しく、決してどこにでもあるような建物にはなっていない。彫刻的な装飾は一切排されていますが、この意味はやはり、王宮のでろでろのバロック建築に向かい合っているという文脈の上で、初めて理解されるような気がしました。あの場所であの状況で、妥協せずに装飾を一切排するには、並々ならぬ信念と意志がないとできることではないですし、しかもその存在を拮抗させるだけのデザイン力を同時に持ち合わせている必要があります。

 ウィーンの場合、建築の新しい提案といっても、まっさらの土地に思うままに建てられるわけではなく、町の歴史の蓄積を無視するわけには恐らくいかないでしょう。周囲に対してどのような態度をとるにしろ、歴史に対してどのような位置づけを行うのかが強烈に問われるような気がします。つねに賛否両論が巻き起こり、その意味を問われ続ける中でこそ、導き出されてきた新しい表現なのであり、質の高いものが実現されている。そしてそのようなプロセスを経てきた表現であるからこそ、町の中でこころよく受け入れられているのではないかと感じてきました。

ハース&ハース フンデルトヴァッサーハウス

 ウィーンの町にとっておそらく建物とは、歴史であり表現であり、ゼロから新しく創り出すものであるよりもほとんどの場合にはすでに「ある」ものです。そこで建物を「計画」しようとする行為には、新しく機能的な建物をどうプランニングするか、ということよりも、今ある建物を資源としてどのように活用するか、あるいは今ある都市に対してどのような役割を果たすか、という視点が強くなるような気がします。建築や都市環境がすでにそこに動かし難いものとしてあり、その歴史や文化、継承されている人間関係、あるいは不便さや不自由さなどを丸ごと受け入れながら、その環境に日々の生活が刻み込まれている。そのような状況での建築や環境に対する見方・捉え方は、常に新しく機能的で快適な建築や環境を創り出そうとしてきた私たちのそれとは、何か質的に大きく異なっているのかもしれません。


2004, Space Design Laboratory, JISSEN Univ.