tachi's COLUMN

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家畜的労働について(2007.09.27)

 牧場にいくと、牛がのんびりと草を食べている姿をみて、心和んだりすることがあります。ただここでちょっと考えてみると、実に当たり前のことですが、乳牛はすべて雌牛なんですね。そして乳を出すということは、すべて母牛なのです。乳牛はすべて例外なく母牛であるということは、考えてみると極めて当然なことなのですが、あまりそのことを気にする機会はありません。さて、では、どうしてそんなに都合良く母牛が牧場にたくさん集まっているのでしょうか。

 実は牛乳を出すために雌牛は、1歳くらいになって子を産める年齢になると、人工授精させられて機械的に子牛を産むことになっています。子供が生まれればミルクが出るようになる。しばらくしたらまた子供を産んでミルクを出す。乳牛として役立たせるためには、つねに母牛であり続けさせる必要がある。それが酪農の現場で行われていることですが、ふだんわれわれは、そこに思いを至らせることのないままに、牛乳をおいしくいただいているんだなあと思ってしまったわけです。

 ところで、産まれた子牛は母乳を欲しがりますが、そうすると製品にするべき牛乳を飲まれちゃうことになるので、母牛から離されて飼育されます。でも、べつに可愛いから育てられるわけではない。子牛は雄であれば、例外的な種牛になるのでなければ、肉牛として食べられる運命にあります。雌であれば乳牛として育てられることになりますが、それはまた強制的に子牛を産んで牛乳を搾られる運命ということです。そこには選択の余地は何もありません。肉になるか牛乳を出し続けるか。牛はのんびりとして見えますが、本質的にはブロイラーと変わらない。このように選択の余地のない人生(牛生)を歩むこと、主人にとって役に立つ機能だけのために存在することが、家畜であるということに他なりません。そしてそのシステムが洗練されればされるほど、私たちは安くて便利に牛乳を手に入れることができるようになっています。

 かつて牛が農家の労働力として飼われていた時代、牛の生活は日がなのんびり牧草をはむというものではなく、毎日農作業の重労働でこき使われていたのだろうと想像します。来る日も来る日も、朝から晩までつらい作業に駆り出され、くたくたになるまで働かされていたのだろう。しかし、少なくともその家にとっては、牛は貴重な労働力であり、曲がり家で同じ屋根の下に暮らしていたように、ともに働く家族のような存在であったのかもしれません。そこでは牛といえどもかけがえのない存在であり、頑張ったときには感謝され、具合が悪くなれば心配され、死んでしまえば悲しまれたのではないでしょうか。同じ家畜であったとしても、その存在のあり方には違いがあるように思います。

 人の役に立つために存在し、搾取される家畜という立場は、かつての役牛であっても現在の乳牛・肉牛であっても変わりないかもしれませんが、肉体的にはつらくとも一匹の固有の存在として認められた家畜と、その機能だけが重宝され、いくらでも代替のきく存在として働かされている家畜とでは、やはり何だか存在の意味が異なるように思います。もしも家畜として働かされることになったとしたら、せめて一匹の固有の存在として認めてもらっていたほうが、生き甲斐もあるし頑張れるのではないかと考えてみたりします。

 「アマゾン・ドット・コムの光と影」という本の中で、いまをときめくアマゾンの仕分けアルバイトの実態がルポされています。そこでは効率性が最優先され、どんどん使い捨てにされていくアルバイトの姿が描かれます。契約は明快で、働いた時間分きっちりとお金が出て、辞めたいときはいつでもすぐに辞められる。もちろん働くのも辞めるのも本人の自由な選択ですが、そこでは個人として遇されることはなく、仕事の効率によって縛られ、効率のダメな奴は何のためらいもなく切られていき、いくらでも代替がきく。仕事そのものに何のやりがいを感じることもなく、そこで自分の感情を表現することもなく、与えられた条件のなかでただ時給のためだけに自らの時間を売って働く姿がそこにあるようです。

 ただし、利用する側にとってアマゾンとは、ものすごく手軽で便利で、かゆいところまで手が届くような親切さとスピードと正確さを実現しています。あの便利さというものを一度経験してしまうと、アマゾン以前とアマゾン以後で世界が変わってしまうと言ってもいいくらいのものでしょう。苦労して本を探すという不必要な手間がほとんどなくなり、へえこんな本もあるのかという情報も一瞬にして手に入ります。こうした安くて早くて正確で便利なサービスを支えているのが、利用しているときにはまったく思いを馳せることのない、機械的で効率的なアルバイト運用なのであり、そして、この効率的なシステムが洗練されればされるほど、私たちはより便利なサービスを手に入れることができるようになるわけです。この限りない便利さの裏にある働き手の存在が、現代農場の乳牛とのある種のアナロジーを感じさせます。

 今日も私たちは、スーパーで安く買った牛乳を飲み、アマゾンで面白そうな本を見つけてクリックしています。その背後で私たちの決して目に触れないところでは、物言わぬ代替可能な人たちが、今日も子牛を産まされてミルクを絞られており、来る日もコンピュータに管理されて倉庫を走りまわっているのでしょう。世の中がより便利なサービスを実現させようとするにつれ、企業がより効率化を推し進めていくにつれ、それを支える労働の質が何か変質してきているという予感がしなくもない。

 いかに顧客のニーズを捉え、そのニーズに応えていくかという企業の姿勢は、顧客本位であることに間違いはありません。顧客も喜ぶ、企業も喜ぶ。WIN-WIN!でもそのときに、私たちがいつも勝つ側にいられるとは限らない。というよりも、おそらくその洗練されたシステムの一部として働くことのほうが、ますます増えていくような気がします。そのとき、僕らは果たして役牛となって働かされるのでしょうか、それとも乳牛となって搾り取られていくのでしょうか。


2007, Space Design Laboratory, JISSEN Univ.