tachi's COLUMN

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アクティブということ(2008.10.26)

 先日、建築学会の環境心理学絡みの研究会で、「環境看護学」を標榜する先生のお話を聞かせていただきました。教育学、建築学、看護学等々のさまざまな分野での自身の研究史を踏まえ、多様な視点から「環境」のあり方を捉えようという刺激的な内容でした。いろいろな分野を渡り歩きながら、実にさまざまな面白い視点を見つけ、それを形にしていく能力と活力は素晴らしいの一言です。いやぁ本当にすごいなぁ、と思うばかり。

 面白い話はいろいろとあったのですが、その中で「アクティブ」ということについての話が印象的でした。ベッドや椅子などから立ち上がったときに、ふらりと立ちくらみする起立性低血圧。通常は自律神経の働きによって心拍数を上げたりして血流を調整するのですが、これがうまくいかずに頭のほうへの血流が少なくなることが原因のようです。自律神経ということは自分の意志ではコントロールできないと思われますが、しかしどうやら、自分の意志も関係するのではないか。ベッドから立ち上がる際に、他人に依存して起こしてもらう(Passive条件)よりも、なるべく本人が自分で力を入れて起きるようにしたほうが(Active条件)、事前に心拍数が上昇して血流がコントロールされる、ということを実験によって実証したのです。立ち上がり補助装置を作り、本人がスイッチを入れることで立ち上がりやすくしてやると、それもまたよい結果につながるようです。つまり、自分の意志で立ち上がる、ということを頭の中で意図すると、それによって神経が刺激を受け、血流がコントロールされるというメカニズムがあるらしいことが分かってきました。これまで医療でも看護でも、患者を受身の状態においたまま、いかに治療を施すか、ということばかりに重点を置いてきましたが、実は患者のアクティブな意志を引き出すことが重要な課題であろう、ということです。

 そして、私たちが立ち上がるときについつい口から発してしまう「どっこいしょ」。とくに疲れてるわけでもないのにうっかり口にしてしまうと、何だか年を取ったように周りから思われるんじゃないかとつい思ってしまうような、ネガティブな意味をまとった言葉のような気がします。でも、これもひょっとしたらアクティブな調整行為の一つなのではないか、という仮説があるようです。立ち上がる際に自分で言葉を発することによって、これから立ち上がることを事前に自分に認識させ、それが自律神経に作用し、血流を事前にコントロールする準備を始めているのではないか、というものです。身体においては、出力された結果を見ながら調整を行う「フィードバック制御」だけでなく、厳密な予測に基づくものではないけれども将来の行為を先取りして調整を始めておく「見込み制御」と呼ぶべき機能があるに違いありません。

 さて、このアクティブという魅力的な概念ですが、高齢者問題をとりまく世界でも、その言葉自体はすでに一般的なものだと思います。「アクティブな高齢者像」などという言葉は、今ではそれほど目新しさを感じませんし、むしろ使い古された感すらあります。この文脈での「アクティブ」とは、活動的で積極的ですごく元気なイメージ、自己選択と自己責任に裏打ちされた高齢者を彷彿とさせます。というのも、高齢者向けの政策というものは、介護にしろ医療にしろ、衰えて自分で何もできなくなった人をいかに支えるか、という側面が強く打ち出されたものであり、それに対して、まだまだ元気で活動的な人に目を向けるために、対抗的に使われるようになった側面があるような気がします。高齢社会と言っても、実はそうした「アクティブ」高齢者のほうが量的には圧倒的に多いのですから。

 最近「生き生きした暮らし」「自分らしさ」等という言葉が、高齢者の環境のあり方を考える際によく使われるように思います。これらの言葉は本来かなり幅の広い意味を持っていると思いますが、上記の「アクティブ」のような意味と接合すると、「自己実現」とか「生きがい」のような、きわめて個人的でありながら、大それた話題につながってしまいがちではないでしょうか。ともすると、明確な目的を持った自律的で活動的で積極的な生活こそが求められるものである、と知らず知らずのうちに思わされている可能性があります。このような「アクティブ」オリエンテッドな生活が求められることは、高齢者のみならずふつうに生活する私たちにとっても、実はなかなかの重荷なのではないかと、常々感じていたりします。

 これに対して「どっこいしょ」というのは、より日常的でミクロな文脈で、そして一見より受動的な活動の中のアクティブ性を評価しようというものです。環境的に、あるいは自分の能力的に、さまざまな制約があって自由自在に行動することが困難かもしれないながらも、「どっこいしょ」によって自分で自分を予期的に制御し、自分の足で立ち上がって活動する。たとえ元気でバリバリではなくても、少なくとも自分の行動を自分で成り立たしめているメカニズムを、そこに見出すことができるでしょう。そうしたパッシブなアクティブ性を誰でも持っているし、そのアクティブ性をきちんと評価し、尊重し、その実現を妨げない環境のあり方を考えることは、実はかなり大きなテーマのように感じています。目の前にある仕事を一つ一つ片付けていくように、平坦な日常を「どっこいしょ」と声を出しながら粛粛と重ねていき、そこにささやかな喜びを見出していくことに、大きな価値が見出されるでのはないか、などということを考えさせられた次第です。


「さてそろそろ仕事も終わったし帰ろうかな。どっこいしょ。」「あらやだ先生、どっこいしょだって。もう年ねえ。」「何を言ってるんだ君は、これは「見込み制御」と言ってだね・・・」


2008, Space Design Laboratory, JISSEN Univ.