tachi's COLUMN

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社会性を失いつつある都市(2009.03.11)

 昨日(3月10日)、MERA(人間・環境学会)の研究会「建築社会学を考える」に参加してきた。「建築社会学」とは?「我々がまさに今生きている"社会"という観点から、建築あるいは建築物ならびにこれに関わる建築行為を学術的に再考する」ということらしい。話題提供は、新潟大学・岩佐氏(建築学)、横浜国立大学・安藤氏(心理学)、東京経済大学・森反氏(社会学)というラインナップであった。そのときの感想をまとめてみる。

 新潟大学の岩佐氏より、「インドア郊外」という概念が提示された。新潟市郊外の生活スタイルを対象としたものである。車の居室化、郊外大規模店舗の居室化、家と車との接続の良さ、車と店舗の融合、が近年どんどんと進行している。その結果、ずっと家の延長のような意識のままにスーパーに出掛けて買い物して遊んで帰ってくるようなライフスタイルが生まれつつあるんじゃないか。郊外の生活空間は形の上では広い土地に大きな店舗が点在しているように見えるが、意識・行動の上ではすべて内部同士連続してしまっているのではないか、というような内容であった。この研究は単に現象面のおもしろさだけでなく、社会に対する強烈な問題提起を含んでいるような気がしている。

 さて、千代田区では町中ではどこでもタバコが吸えなくなっているらしい。我々の住む町または世界は、自由な行為や、はみ出たような行為を許さなくなってきており、どんどん管理化・清浄化されている、という指摘が森反氏よりなされた。それは確かにそうかもしれない。でもそうした傾向を作っているのは、お上の締めつけがどんどん強まっているだけではないような気もする。禁煙の強制された空間で、あえてタバコを吸っている人を見つけたとき我々は、隅々まで管理された空間に一穴を穿とうとしている行為として称えようとはせず、おそらく何だこいつ?という怒りの感情が湧き上がり、白眼視してしまうだろう。警備員か誰かが来て注意してくれれば、心の中で警備員のほうにエールを送ることになるのではないか。つまり、我々自身の意識もまた、世界の管理化・清浄化を強めることに大きく荷担しているような気がするのだ。

 しかしそうした世界の管理化が進行する一方で、そんな管理的な圧力など感じないかのように、傍若無人に振る舞う人も増えているような気もする。(ご存じ、宮台真司が「仲間以外みな風景」と呼んだ現象である。)これは、社会の圧力に対峙した上で軽々と乗り越えたりしているわけではなく、まるで自分の周りにある社会の圧力に最初から気付いていない、あるいは社会の存在そのものが自分に関わりあるものとは捉えていないような振る舞い方を示している。

 さてここで、前者の、社会を隅々まで管理しつくしていくような動きと、後者の、社会的規範から逸脱していく動きと、一見正反対な現象が同時に進行しているように思えてくる。でも両者は正反対の事象というよりも、何か共通する背景から生み出されたものであるようにも感じる。それは、いずれも協同性の欠如というか、他者との共有意識や同意が欠如しているところにある。そこに社会が形成されていない、といってもいいだろうか。

 社会性の欠如という意味では、先の「インドア郊外」にも一脈通じるものがある。すべてが自分のプライベート空間の延長としてプライベートな意識のままに、出掛け、買い物し、食事し、遊ぶ。物理的な行動範囲は広がっていても、そこに社会との接点がないのである。生活全体のプライベート化といってもいいかもしれない。もちろんそこに他者は物理的に存在するが、それは賑わう雰囲気であり風景としての他者である。家族で大型スーパーに行って他者と関わり合うということは実際ほとんどない。

 このことは、「インドア郊外」で育つ子供たちが、公共的な空間で公共的に振る舞うこと、つまり社会性を学ぶ機会を、構造的に奪われていることを示しているように思われる。かつてはさまざまな人の出入りしていた家は、今や家族だけの空間となり、随分以前に社会性は失われてしまっている。近隣の共同性ももはや期待できない。そして今、町そのものが社会性・公共性を失いつつあることを「インドア郊外」は先見的に示しているのかもしれない。

 もともと郊外の大規模店舗は、消費者ニーズ最大化の末に辿り着いた形態である。安全で便利に快適に買い物ができるように、至れり尽くせりの空間が造られている。我々は消費者として振る舞う限り、他者との協同性は必要とせずにいられる。お一人様の個人として、最小限の負担で最大限の利益を獲得しようとするのが、消費者であると考えられる。内田樹がどこかで指摘していたが(「下流志向」だったかな?)、小さいうちから消費の場でお客様として扱われてしまうことで、子供たちは社会的存在としての自己を確立する以前に、消費主体としての自己を確立してしまう。自分にとっての利便性・快適性が唯一の価値軸となり、社会的な価値、公共的な価値には見向きもしないだろう。

 社会性とはおそらく、自分が好むと好まざるとにかかわらず他者と出会い、そこで怒られたり嫌な思いをしたり、褒められたり認められたりしながら、そしていろんな人がいるということを知ってその存在を認めていくプロセスにおいて学ばれるものである。それは、面倒で手間がかかり迂遠的で不快な作業ですらある。だからこそ、自分の意志によらず「否応なく」他者と出会うことが重要なのではないか。プライベート空間とは、自分の好みで他者との出会いを選択できる空間である。自分の行動圏がプライベートなものに塗りつぶされていくほど、「否応なく」他者と出会わざるを得ないことが回避されることになる。そこでは自分の好きなことは他者にお構いなしにできる(だって構わなければいけない他者がいないから)し、自分のしたくないことはやらなくてよい(面倒だし)。でも時折他者が、自分の快適性をほんの少しでも侵すような振る舞いをしたときには、それを受け入れることなどできずに、耐え難い不快感を感じることになるだろう。

 「都市とは、小さな子供が歩いていくと、将来一生をかけてやろうとするものを教えてくれる何かに出会う、そんなところだ」というルイス・カーンの言葉は、人々の協同性・社会性に裏打ちされた、学びの場としての都市の本質を言い当てている。それは「インドア」化した郊外から、限りなく失われている性質であるような気がしてならない。


2009, Space Design Laboratory, JISSEN Univ.