tachi's COLUMN

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小さな市民社会の誕生(2012.12.15)

 学内で行われた保育関係の研究会に、昨年の卒業研究でお世話になった保育園の園長先生が来て講演される、ということで、オブザーバー参加させていただきました。小規模な認証保育所で、その家庭的な園舎も魅力的ですが、毎日のように周辺の街や公園、自然などに出掛けていって、そこでさまざまな生活を繰り広げていることが大きな特徴です。講演では、そうした子供たちの生活の様子のビデオを多数見せていただきました。中でもとくに印象に残った場面がありました。

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 それは、もうすぐ卒園という5歳児が、その記念にご馳走を食べようということで、園長先生につれられて近所のファミリーレストランに行く場面です。7人くらいの5歳児が座席に着き(園長先生はビデオを回し続けています)、各自がメニューを見て、それぞれ自分で食べたいと思うものを注文します。でもその日は混んでいたためなのか、なぜかなかなか料理が出てきません。その間子供たちは騒いだり走りまわったりすることなく、お喋りしたりしながら辛抱強く待ち続けていました。待ちに待ってようやく料理が運ばれてきます。お腹の空いた子供たちはさっそく「いただきます」と言って食べようとしますが、一人の女の子の料理だけなぜか運ばれてきません。他の子と同じ物を注文したのに、1つだけちっとも料理が出てこない。そのうちに2人の男の子が食べ始めます。でも他の子は食べずに待っています。目の前の料理は食べたいけど、でもみんなと一緒に食べたいので待つと言っています。先に食べ始めた子が食べ終わりそうな頃、目の前の料理も冷めかけた頃にようやく残りの一人の料理が運ばれてきて、ようやく全員食事をすることができました。

 食べ終わって帰りの車の中で園長先生がみなに聞きます。「○子ちゃんの料理がなかなか出てこなかったけど、そのとき自分の料理を先に食べ始めた子もいるし食べずに待ってた子もいる。それぞれどうして食べたのか、食べなかったのか、その理由を聞きたい」と。食べた子は「お腹が空いたから」「おいしそうだし食べたかったから」と答えます。待っていた子は「一人だけ来てないのは可哀想だから」「みんなでいただきますをして食べたかったし、一緒にお喋りとかしながら食べたかったから」と答えていました。ふつうだとここで、「そうだよね、一人だけ来なかったら可哀想だよね。みんなで一緒に食べた方がおいしいし、やっぱりこういうときは待ってあげようね」という展開になりそうな気がします。

 でも園長先生はまだ問いかけます。「先に食べ始めた方が良かったのか、待ってた方が良かったのか、皆に決めてほしい。」すると「待ってるほうが良い」という声が多い中で、実際に待っていた子から「待っていた子は待とうと思って待っていたけど、食べた子はお腹が空いて食べたいから食べた。どちらも自分で決めたことだからどちらも悪くない」という驚くべき意見が出されます。さらに「じゃあもし自分が○子ちゃんの立場で、自分の料理だけなかなか来なかったとしたら、みんなに待っていてほしいと思うか、先に食べてほしいと思うか、どっちだろう」という問いかけに対して、先に食べてしまった子が「やっぱり待っててもらったほうが嬉しい」と気がつきます。一人ひとりが意見を言ううちに、待っていた子たちを中心としてだんだんと「待っててもらったら嬉しいけど、でも自分のために食べたい料理を我慢させることにもなるので、食べても食べなくてもどちらでもよい。」という意見にまとまってきていました。

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 これはやはりすごい場面だなと思います。小学校に入る前の子供たちでありながら、そこには成熟した市民社会が展開されているように感じました。「社会性の獲得」と言ってしまうと、自分のわがままを抑えてみんなに合わせる、定められた社会的ルールに従う、と捉えられてしまうかもしれませんが、ここではそうではありません。

 まずは自分の主体性というものが確固として存在しており、それが前提としてみなに認められています。(園長先生は、各自の「わがまま」の発露こそが主体性であると明確に述べていました。)「食べたい」「待ちたい」という一人ひとりの異なる意見があることが子供たちに理解されており、そのどちらもが尊重されています。最後の「どちらもありだ」という意見を、どっちつかずの玉虫色の結論である、と見ることもできるかもしれませんが、しかしそれは単なる妥協ではなく、他ならぬ子供たち同士が互いを認めていく中から導き出されてきた結論です。誰かを悪者にして糾弾するのではなく、全員が明るくそれぞれの意見を述べ合い、何となくみなが納得できるところに落ち着いていった、という過程が印象的です。先生が一方的に政治的に正しい意見を押し付けてしまうのではなく、また多数決などで無理矢理意見をまとめてしまうのでもなく、対話によって互いに了解できる価値観が少しずつ形成されていく過程をみることができました。

 自立した市民が主体的に参画し、互いの主体を尊重し、その結果としての多様な意見の存在を前提として、対話によって相互了解を作りあげていく、という態度は、成熟した市民社会の様相そのものと言えるのではないでしょうか。ハーバーマスの言葉を借りると、「システム」によって1つの政治的価値を上から押し付けるのではなく、対話を媒介として相互了解的価値をもつ「生活世界」が形成されている、と言っても良いのかもしれません。「こうしたほうが正しいんだよ」という意見(それが政治的に正しいものであっても)を押し付けてしまうことは、それに従わない子を排除しようとする力に変換されてしまうことにもなり、結果として各自の主体性を萎ませ、多様な意見の創出を阻むことでもあります。

 最近の私たちの社会では、自分と異なる意見や、政治的に正しい意見とは異なる少数意見に対して、それを糾弾し排除してしまう傾向が見られる気がします。誰もが叩く側になろうとして、標的をみつけるとひたすら叩く。正しくないやつは叩かれても仕方ない。でもそれはイジメの構図に近い気がします。子供たちを社会化させるというよりも、むしろ私たちの社会こそがこうした子供たちに学ばなければいけないのかもしれません。

 あと、園長先生の態度もすごいなと思います。子供たちが一生懸命自分でオーダーした料理がなかなか出てこない、それでも健気に待っているのにようやく出てきたと思ったら一人だけ出てこない。ふつうであれば切れて店に文句を言うところでしょう。いくら待たされても出てきたものを大人しく食べるのではなく、正当にクレームを入れることのほうが、消費者としての正しい態度のようにも思えます。店員が謝り、料理ももうちょっと早く出てきたかもしれません。でももしそうしていたら、子供たちに「消費者的価値観」を見せつけることになったように思います。こういうときには自分の権利を主張して相手に受け入れさせることで、自分の目的を手っ取り早く達成することができるんだな、ということを、子供たちが学ぶことになったのではないでしょうか。消費者として振る舞うことは、最小の投資で最大の利益を上げることを目的とし、経済的合理性を重視して価値観の多様性を許容しない態度です。それは時として(あるいは往々にして)、市民社会的な相互了解的価値観と相容れないことになります。(後者の)市民社会的な価値観は、実際の社会や環境の中で直面する矛盾や課題に向き合い、その課題を何とか統合しようとする回りくどい努力によって、少しずつ培われていくものである、という主旨のことを、昨日の講演でも述べられていたように思います。園長先生のこうした考え方こそが、ともすると消費的価値観を学ぶ場になりかねない状況を、市民社会的価値観を学ぶ場に変貌させていたのではないかと思いました。


2012, Space Design Laboratory, JISSEN Univ.