tachi's COLUMN

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弱いロボット(2015.7.15)

 2015年7月11日(土)にMERA107回研究会@近畿大学に参加した。テーマは「ロボットが私たちの周囲に加わる可能性と課題」として、6題の話題提供をいただいた。

 第一部では、まず茨城大の松本先生より、最近ルンバを追いかけているという話。まだ明確には語ることができないが、家の中に実際にロボットが入り込み、そして家を環境として動き回っている現実に、何か新しいことが起きているのではないか、という問題提起。次に名古屋大の久木田先生からは、ロボットが社会に入り込んでくることをわれわれ自身はどのように受け止めうるのか、というさらに根本的な問題提起。役に立つ道具であったはずのロボットが、知性や感情らしきものをもってわれわれに寄り添い、精神的・社会的なサポート役まで果たそうとしている。ロボットにケアされ、ロボットだけがコミュニケーションの相手になるような高齢者の姿を、われわれの未来像としてどのように考えるか、という問題でもある。

 第二部。宮城大の小嶋先生からは、実際にロボットを介して発達障害の子供たちのコミュニケーション力を回復させるきっかけにしようと試みる実践報告。自閉症児は、他者からのあまりに多様な情報には対応することができず、結果的に他者と関わることを苦手とする。情報をよりミニマルに表現するロボットを用いることで、ある種のコミュニケーションが可能となっていく。豊橋技科大の岡田先生からは、「弱いロボット」の話。ロボットが高機能になるにつれ、われわれとロボットの関係は一方的になり、結果的に人を受動的な存在にしてしまう可能性がある。いっぽう「弱いロボット」は直接役に立つものではなく、むしろ人がロボットをサポートしようとして、結果としては人が動くことで目的を果たすことを促す。そこには、高機能ロボットではなし得ない、人とロボットが一緒に行為を構成するような「相互構成的な関係」が生じるのではないか。

 第三部。奈良女子大の麻生先生は、ロボットがこの先どれだけ知性的なもの、感情的なものを備えていっても、動物のように親和的な関わりを築くことの困難さを指摘。人とロボットとの関係はつねに現在的であり、歴史性を蓄積することはできない。つまり相互に発達的な関係を築くことはできず、そこから得られる価値観をロボットと共有することはできないだろう。さらに立命館大の浜田先生は、ロボットとの間に相互構成的な関係を築くことはできても、そこから「相互主体性」を感じることは難しいことを指摘。人は他者と出会うとき、互いの歴史的な物語の文脈を読み込むことで、自分も他人も理解しようとする(その物語は互いの関係の中でつねに変化し続けている)。人が一方的にロボットに物語を投影することはあっても、その逆は困難である。あたかもその関係を可能にするかのように見せかけるロボットは、実は危険を孕んでいる。

  

 ここから考えたこと。

(1)まず最初に、知性とは何だろうか、ロボットは果たして知性をもっていると言えるのだろうか、という問いが頭に浮かんだ。確か佐々木正人さんによる「ミミズに知性はあるか?」という文章を読んだ記憶がある(うろ覚えながら)。ミミズは一見複雑な振る舞いをするが、それはミミズの中にいくつかの決められたアルゴリズムがあって、それがそれぞれの環境と出会うことで生じるものであり、結果的にそれぞれの環境の中で適切に振る舞うことを可能にしているという。ミミズの意志や目的を前提としなくても、十分に環境に適応していることを見れば、それは知性と呼ぶことができるのではないか、という文脈だったように記憶している。

 ルンバの動きは、各部屋の状態に合わせてプログラミングされているわけではなく、さまざまな住宅においてかなり複雑な動きを見せる。おそらく環境に対応するためのいくつかのアルゴリズムが仕組まれているだけであり、多様な環境の中で適切に振る舞う(一通り床を掃除終えて自分の寝床に帰ってくる)ことを可能にしている(そして時には失敗していろんなことをやらかしていく)。これは、ルンバを見る側からすると、自律的かつ環境即応的に、すなわち知的に振る舞おうとしている姿として捉えられる可能性がある。自分の家の中に、自分とは異なる自立した知性の体系が入り込んでいる(と思わされる)ことは、家という環境に変化をもたらしている可能性がある。

(2)二つ目は、ロボットに対して人が愛着をもつ持ち方について、いくつかの種類あるいは段階があるのではないか、ということである。まずわれわれは、意志をもたない、自律的に動くわけでもない、純粋な道具に対しても深い愛着を感じることができる。使い込んで手に馴染んだ道具であれば、それは自分の能力や感覚を拡張してくれるツールとして、われわれはそこに強い結びつきを感じることができるだろう。それはわれわれと道具との相互構成的な関係が生み出す愛着であるとも言える。

 次に、自分とは異なる自立した知性による自律的存在に対して、愛着を感じることがある。とくに感情の交換がなかったとしても、自律的に活動したり成長したりする植物や動物に対したとき、それを見てときには癒され、ときには励まされ、ときには応援したりケアしようとする。おそらく人の側が一方的に(そして一方的であることを十分に理解しながら)、その存在に対してさまざまな感情を投影することができ、結果としてわれわれ自身にさまざまな影響を与えることになる。

 そしてもう一つ、コミュニケーションによって引き起こされる愛着がある。これは相手との間に社会的な関係を構築することができるかどうか、ということに関わる。アザラシのセラピーロボットにしてもpepperのようなロボットにしても、感情を交換することを目指した取り組みであり、コミュニケーション相手として実際に介護の現場などに導入されようとしている。しかし麻生先生や浜田先生が言われるように、われわれはロボットとの間に発達的で相互主体的な関係を構築することは本質的に困難なのではないか。それを可能なように見せる技術に対して違和感を感じるのは、何か捏造された物語を押し付けているような気がするからかもしれない。

(3)そうしたことを考えたとき、岡田先生の提唱する「弱いロボット」のなし得る新たな役割についてうならされる結果となった。ロボットとは本来、効率性や厳密性、持続性や力強さなど、人の及ばない能力を生かして、人の役に立つ、人をサポートするために作られた道具であろう。しかし、ロボットが有能で役立つほど、人の能力を衰退させていくという側面を併せ持つ。いっぽうで「弱いロボット」とは、人をケアするロボットではなく、人にケアされるロボットである。それはこれまでのロボットの役割をまったく反転させることになる。そのロボットは自律した知性の体系をもちながらも、つまり何らかの志向性を感じさせながら、環境への適用が不器用であり、ロボットだけではうまく目的を果たすことができない。その姿をみることで、人の側がロボットをサポート、ケアしたいと思い、共同の主体者へと自らを組み替えていく。つまり、このロボットの存在によって、人の側が、ケアされる存在からケアする存在へと転換されることになる。

 いま介護の現場にロボットが導入されるとき、二通りの役割が期待されている(はずである)。一つは物理的に歩行や移乗などを介助する道具としての役割であり、もう一つは上でも述べたようにコミュニケーション相手、セラピー役としての役割である。前者は場合によって、介護対象者をより依存的にしてしまう可能性をもつ。後者は前述したように、捏造した物語の中に対象者を閉じ込めてしまうような違和感がある。「介護される」ロボットという考え方は、どちらとも異なる新たな地平を拓く可能性があるのではないか。


2015, Space Design Laboratory, JISSEN Univ.