tachi's COLUMN

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北欧の「ふつう」の生活(2015.12.12)

 12月12日に行われた、環境行動研究小委員会主催の公開研究会に参加した。テーマは「社会システムと場所の質から読み解く北欧の「ふつう」の生活その2 変わりゆく北欧社会において継承されているもの」。主題解説は4題。スウェーデンとフィンランドにおける住宅・コミュニティ・医療・図書館などを題材に、そのシステムや取り組みについて紹介された。

(1)住まい・コミュニティへの愛着を取り戻す試み(東洋大・水村先生)

 前半では、スウェーデンの住宅政策の変遷と現状が紹介された。1960〜70年代の「住宅百万戸計画(ミリオンプログラム)」に代表される大量の住宅供給が公共主導で行われてきたが、EU参加に伴って政策が転換され、民営化が進められてきた。その結果2000年以降、住宅地が「高級化(Gentrification)」と「低廉化(Stigmatization)」の2極分化の傾向を強めている。都心部の住宅地は高級化が進む一方で、郊外の住宅地では低廉化が進み、これらの住宅地では、高齢化、低所得者層の増加、移民層の増加、失業率の増加が顕著となっている。
 後半では、こうした低廉化した住宅地の再生の取り組みが紹介された。スラムクリアランスのような形ではなく、住民の意見・意向を聞き入れながら、住宅の改修のみならず、教育の改善、就労支援、防犯活動の展開、アート活動の組込など、コミュニティ全体の問題解決を目指した幅広い取り組みが行われている。住民も活動に巻き込むことで、コミュニティが復活し、住民の地域への愛着が増幅されつつある。

(2)フィンランドの精神科医療環境(宮城学院女子大・厳先生)

 まずフィンランドの政策・取り組みの背景が紹介された。国民一人ひとりの自立を支えること、多文化の共生を実現させていくこと、という考え方がすべてのバックボーンにある。また自治体の裁量権が大きく、シンプルで小回りの効く体制で、現実のさまざまな問題に対して柔軟に取り組んでいることが特徴である。
 フィンランドの医療環境では、どんな人出会っても病院に頼らずに生活できるようにするためのシステムが目指されている。精神科の病床数もこの30年の間に1/5に減らしてきた(日本の病床数は横ばいで、欧米に比べ圧倒的に多い)。精神科患者が地域で生活できるために、初期対応できる仕組みを整え、住む場所を確保し、就労を支援し、在宅で医療・リハビリを受けられる仕組みを整えている。そうしたサービス提供の中心的な役割を果たすのは、市の設立した財団法人などの第3セクターである。
 日本の精神科医療環境も、近年劇的に改善されているが、主に医療施設における空間やしつらえなどの物的環境の改善に留まっている。フィンランドでは、実際に地域での社会復帰を目指して、マンパワーやリハビリプログラムなどを充実させている。そのプログラムも、制度や基準で一律に決定されるのではなく、あくまで当事者(患者)が主体となって決定されている。

(3)1960年代に建設された公営住宅のリノベーション(東京電機大・伊藤先生)

 スウェーデンにおける公営住宅団地の改修事例が紹介された。「住宅百万戸計画(ミリオンプログラム)」時代に建てられ、その後「低廉化」が進んでいる(すなわち環境悪化が進行ている)団地の改修事例である。
 改修のキーワードはサステイナビリティであるが、とくにエコロジカル(環境負荷軽減)とソーシャル(社会的統合)の側面が強調される。住宅改修によって居住環境を改善するだけでなく、ゴミのコンポスト化、屋上緑化の推進、雨水の水路整備などによって環境負荷を軽減させる。住民にゴミの分別や外構の維持管理に積極的に参加してもらい、住民同士を繋いでいく。団地内に情報センターをつくって、住民がさまざまな情報や社会サービスへアクセスしやすくするとともに、外に対してエコロジカルな取り組みについて情報発信を行う。単なるボランティアではなく、管理費が減免されるなどのインセンティブを与えて、多くの参加を促す仕組み。このように、住環境改善・環境負荷軽減・コミュニティ醸成・住宅地の維持管理・社会サービス向上・就労支援などが、一体のものとなって取り組まれていることが特徴的である。住民の声、とくにふだん声を上げづらい社会的マイノリティの声を拾い上げることにも力を入れている。結果的にこうした団地では、さまざまな人の社会的統合も進んでいるという。
 どんな団地にもそこで住んできた人の愛着・誇りを育もうとする土壌があり、それをうまく醸成することは住宅地のサステイナビリティを高める上で重要な課題である。

(4)まちのリビングとしての図書館(豊橋科技大・垣野先生)

 フィンランドには居心地のよい図書館が多い。人口当たりの数も多いが、近年「市民のリビングルーム」というコンセプトを打ち出して、さまざまな図書館の取り組みが行われている。
 フィンランドの図書館はどれも個別で個性的である。こじんまりとして落ち着いた図書館。さまざまな家具がレイアウトされて自由にくつろげる図書館。レストランと合築されて、ガラス一枚隔てて食事の臭いや音が伝わってくる図書館。ショッピングモールの上階に併設された図書館には、買い物客の雑踏が伝わり、誰でも自由に過ごして良い雰囲気が醸し出されている。アート活動やワークショップが行われ、放課後の児童館の役割を果たす図書館もある。フィンランドでは、図書館内での禁止事項はごく少なく、飲食・会話・パソコン使用などが制限される場所のほうが少なくなっている。
 いろんな人のいろんな過ごし方が受け入れられ、「本のため」の特別な場所から「日常のリビング」「何かができそう」「ついでに本」の場所へと変わってきている。フィンランドでは、家族、仕事、食事、パーティなど、さまざまな生活場面がすべて、日常の大事な場面として等価であり、すべて揃ってはじめて生活の質が保たれると考えているのではないか。そうした日常の場面の一つとして、図書館も重要な役割を果たしている。

◆  ◆  ◆

 研究会を通してあらためて気づいたことをまとめてみた。

1)共有される理念・哲学について

 北欧というと福祉国家としてのイメージが強いが、その仕組みやシステムは確固として制度化されたものというよりも、時代に応じて、状況に応じて、いろいろと変化している。ときには失敗したり反省したりすることを含め、多様な試みがなされ、そこから新しい取り組みが生み出されているようである。しかし単なる行き当たりばったりの思いつきではなく、その背景には目指すべき理念や哲学があり、それが個人のレベルから組織、自治体、国のレベルまで、共有され共通了解されているように感じる。
 たとえば「自立」と「共生」。「自立」とはおそらく、一人ひとりが自分の頭で考え、自分の足で立ち、その人らしい生活を作りあげていくこと。「共生」とは、いろんな立場、いろんな価値観、いろんな状況を超えて、一人ひとりの個別性を尊重しながら、社会の中で排除されることなく、共に居られること。この自立と共生を実現させる社会をつくっていくことが、行政の役割でもあり、組織の役割でもあり、そして個人の役割でもあると、認識されているのではないか。自由で自立した個人が共生できる環境を支えることが社会の役割であるとともに、自立した個人の共生とコミットメントによってそうした社会が支えられるという、個人と社会との不可分な関係が構築されているのかもしれない。
 その上で、その実現のための方法については一律ではない。人によって、政権によって、あるいはその時々の状況によって、その手法にはいろいろと違いがあるが、目指すべき理念・哲学は共有されている。そのために、その時々によって左右に振れはあるものの、全体としてはある一定の方向に歩を進めているように感じられる。

2)理念達成のための実践について

 北欧でのさまざまな取り組みの特徴を見いだそうとして、それがどのように制度化され、どんな基準が作られているのかについて尋ねても、なかなか明確な答が得られないことが多い。サービスやプログラムなどに一律な基準を作って、対象者をそこにあてはめていくのではなく、それぞれの事例において必要な人員や必要なサービスをその都度定めているようである。どうやら、ある人の社会的自立と社会的共生を実現させるために、どのようなプログラムやマンパワーが必要か、ということが、それぞれの現場で議論され、策定され、実践されているのである。したがって、それぞれの事例は個別とならざるを得ない。しかし目指すべき目標達成に向けて考えたとき、それが実はきわめて合理的な取り組みになっている可能性がある。
 そうした現場主義的かつ合理主義的な解決が可能になるのはおそらく、住宅供給にせよ社会サービスにせよ、その責任と権限が国レベルではなく自治体レベルに落とされてこと、そしてより具体的には各現場を運営する組織に任されている部分が大きいことによるのではないか。そしてそのように自治体レベル・組織レベルに権限を委譲することが可能になる背景にはやはり、最初に述べた理念・哲学が国レベルから組織・個人レベルにまで共有されており、それをベースとした互いの信頼感が構築されていることがあるように思われる。

3)生活に対する考え方について

 また、一人ひとりの人権や生存権の尊重、あるいは生活権とでも呼べるものに対する共通了解もあるように思われる。一人ひとりの「生活」を保証するところに、さまざまな取り組みの出発点がある。
 その生活とは、居住環境とか賃金とか治安とか、別々の指標で測られるものではないし、一律の基準で輪切りにできるものもない。そこでの「生活」とは、居住も労働も余暇も教育も社会サービスも、すべて総体となったものとして捉えられているように思われる。一人ひとりの生活の質を保証するためには、どんな人に対しても、居住の場を保証し、社会サービスを保証し、教育を保証し、就労機会を保証し、余暇を保証し、社会とのつながりを保証し、そして環境との関わりを保証していく、という総体的な取り組みが不可欠になる。リアルな生活とはそうしたトータルなものであり、一人ひとりの「自立」と「共生」は、そうした多くの取り組みが統合されてはじめて達成されるのである。

4)北欧的合理主義の原点について

 スウェーデンやフィンランドは、基本的に田舎の小国であり、人口も少なく、目立つ産業もない。そうした国が大国の圧迫を受け、国家存亡にかかわる危機に追い込まれた経験から、その切羽詰まった状況を乗りきるために生じた合理主義という側面があるのではないか、という話題が上がった。たいした資源もない小国が限界の中で生き残ろうとするとき、次のような方策は確かに合理的に思われる。

1.個人個人が自立すること。一人ずつが自立し、個人の力を大きくすることで、国が支えられ、国全体の力も大きくなる。
2.自立した個人が共生していくこと。互いに支え合うこと、とくに社会的弱者が支えられるような仕組みをつくることは、社会全体が生き残る上で有効である。なるべく多様な人を受け入れていくことで、味方を増やしていく。
3.合理的な仕組みを作っていくこと。最小限の資源で最大の効果を得るため、無駄を省き、目標を的確に達成するための方法を徹底して検討する。全体で足並みを揃えるよりも、状況に応じて個々の力を活用するほうが合理的に解決策にたどり着く場合もある。

 日本の場合も、戦後、存亡の危機に追い込まれたはずであるが、しかし国としてどうやって生き残るべきか、ということを一人ひとりが切実に考えるところまでは追い込まれなかったのかもしれない。もちろん生活の上では危機的状況にあったと思われる。しかし戦後の理念的なものは、上から与えられる形になり、自分たちでつかみ取ったものとは言えない可能性がある。

5)現在の日本の課題について

 日本の場合、理念や哲学が共有されないままに、縦割り行政の中で設けられた制度や基準が一人歩きするような状況がある。実践の現場、組織、自治体、国のレベルで、おそらく目指す理念は共有されていないし、共有されるべき哲学もその存在自体が危ぶまれる。現場レベルでは確固とした理念のもとに優れた実践を行っていたとしても、制度化の権限を握る行政レベルが上がるほど、既得権益拡大とつじつま合わせの議論に落ちていく傾向が強いように思われる。
 とくに現在の政権は、「自立」や「共生」という理念とはまったく相容れず、むしろこれらを制限し萎縮させる方向性を明確に打ち出している。生活をトータルに捉え、一人ひとりの生活の質をいかに保証するか、という視点はどこにもなく、むしろ総体的な日常生活を収奪し毀損することに主眼があるかのようである。
 かつてスウェーデンの研究者から、日本とスウェーデンの制度・政策のもっとも大きな違いについての話を聞いた憶えがある。スウェーデンでは権力者は不正をしない、できない、という。国民の生活を保証するために税金を使うことが権力者の仕事であり、それ以外の使い方をしようとすれば、国民の監視によってたちまち失脚してしまう。一人ひとりの「私」を支えることが「公」の仕事であることが、明確に認識されていると言える。「私」の権利に制約を加えようとする現在の日本の「公」のあり方は、「公」の「私」物化と呼ぶべき事態であり、成熟社会のありようとはまったく逆方向のベクトルと言える。

6)環境行動研究との関係について

 しかし、現場レベル、実践レベルでは、こうした「公」のありようとは切り離した形で、学ぶべき事例が増えてきているようにも思われる。総体的な生活を取り戻し、個人の自立と共生の実現を目指した取り組みが、あちこちで湧き上がるように生まれている。規制の枠にはとらわれず、状況に応じて柔軟で多様な試みがなされている。こうした「まちの居場所」は環境行動研究の一つの重要な研究フィールドであり、その意味と価値の記述を蓄積しようと試みてもいる。
 生活を輪切りにせずにトータルに捉え、環境とのリアルなやりとりに注目し、生活の質の向上を目指すことは、環境行動研究のまさに主眼とするテーマである。北欧のさまざまな取り組みを、ときに横断的に、ときに深く掘り下げてみようとする今回の研究会は、その根本のところできわめて環境行動的な価値観にあらためて気づかせてくれる機会になったように思われた。


2015, Space Design Laboratory, JISSEN Univ.