tachi's COLUMN

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新たなまちの創り方(2016.03.07)

 3月5日(土)建築学会の高齢者・障害者等居住小委員会主催の公開研究会「人と人がつながって新しいまちを創る〜人口減少・超高齢社会におけるコミュニティの役割〜」に参加した。登壇者は、石川県を中心にシェア金沢、西園寺などの取り組みで注目を浴びる社会福祉法人佛子園の雄谷良成理事長と、愛知県で愛知たいようの杜を設立し4年前から長久手市長となった吉田一平市長、という豪華な顔合わせである。

1.佛子園 雄谷理事長「「生涯活躍のまち」で描く地方創生」

 子供時代は、お寺でやっていた障害児施設の中で一緒に生活していた。むしろその状態がふつうと思っていた。社会では障害の有無によって分けられていることに問題意識をもっている。

 シェア金沢はごちゃまぜのまち。いろんな人が一緒にいることで元気になっていく。高齢でも障害があっても、自分のやること、自分の役割があると元気になる。まちも元気になる。人こそが地域であり、そこにいる人を表に出していくことが重要。日本版CCRCのモデルとなり、「生涯活躍のまち」の制度化につながっている。

 シェア金沢のプロトタイプは、小松市の西園寺。廃寺をみんなできれいにして温泉も堀った。地域の財産としてまちの人が集まる場所となる。温泉はまちの人は無料で、管理もみんなでやる。ここは温泉でもありカフェでもあり飲み屋でもあり、高齢者のデイサービスでもあり、障害者の就労の場でもあり、子供の遊び場でもある。

 ここで認知症のおばあちゃんと重度身障児が一緒にいてしばらくしたら、おばあちゃんは身障児の面倒をみてるつもりになって元気になり、ほとんど首を動かせなかった身障児も首の可動域が広がった。いわゆる「介護」の力ではできなかったことが、いろんな人が一緒にいることで可能になった。アルツハイマーのおじいさんがお風呂に入って本堂の天井を見上げていたら、過去を思い出して元気になった。本物の建築にも人を癒す力がある。

 西園寺で8年活動しているうちに、集落の人はほとんど来るようになり、新たに集落に越してくる人も出てきた。高齢者も病気の人も障害のある人も、そこにいるだけで家族や仲間や地域社会に積極的に貢献することができる。まちにいろんな人がいることで、外からも人が来ることで、まちの人々もそうしたことを誇りに思えるようになってきた。

 WHOによる高齢者にやさしい都市とは、住宅と福祉だけでなく、社会参加の機会、雇用、コミュニケーション、情報、交通機関、社会的包括など、さまざまな要素がある。生きがいがあること、人生の目的があること、就業していること、活動へ参加していることは、高齢者を健康にし、要介護になりにくくする。これは福祉施設だけでできることではなく、地域全体で対応する必要がある。最初からまち単位でいろんなものをごちゃまぜにしていくことを考えている。白山市のB'sプロジェクト、輪島のKABULETなど、さまざまなタイプを手がけている。空き家がたくさんあると、それを使っていろんなことができる。宝の山のように見える。

 まちの規模は、一人ひとりの顔が見え、全体がコントロールできる範囲を設定している。大きくても小学校区まで。人それぞれ、幸せもそれぞれ、生き方もそれぞれ。違いを尊重して、いろんな生き方を許容できる大きな器としての地域をつくりたい。

2.長久手市 吉田市長「一人ひとりに役割と居場所〜たつせがある〜まち」

 長久手市は、住みたいまち、子育てしやすいまちとして、全国トップクラスの評価。そこで4年前に市長になった。役所の仕事を極力減らすように努力している。

 35年前から幼稚園や老人ホームなど、愛知たいようの杜ゴジカラ村を始めた。ここでは雑木林の中でいろんな人が一緒に居て、人から何も言われず、ゆっくり遊べる、楽に生きられる場所にすることを目指す。ここにはいろんな施設があって、いろんな人が一緒に暮らしている。いろんな人が混ざって暮らすと、一人ひとりに「たつせ」ができる。いろいろな問題も起きるが、そこに物語が生まれる。

 今は、失敗を許さない世の中のあり方が、子供を締めつけている。子供が自由にいろんなことができて、人からほめられ、転んでみることのできる世の中が大事。家庭や地域などの暮らしの場に、仕事場の価値観が持ち込まれ、さまざまなひずみを生んでいる。「時間に追われる国」の価値観と「時間に追われない国」の価値観の違いによって、多くの人が病んでいる。

 「時間に追われる国」とは、学校・病院・企業など仕事の場。目的集団=同質の人からなる。そこでは、最短距離を最高の効率でいくことを目指し、結果が求められる。人はその能力によって評価される。一つの正解があり、完成解決を目指す。悪いところを切り捨てれば、よいところになると思っている。

 「時間に追われない国」とは、家庭・地域・高齢者や子供のいる暮らしの場。生活集団=いろんな人が一緒に暮らしている。遠回りもよし、そのプロセスを楽しむ。人は存在そのものに価値がある。人の数ほど答があり、いつも未完成の状態。よいところを取り入れると、悪いところも必ずついてくるものであり、両者を含みこむ。

 いままでの人口増加時代から、まだ誰も体験したことのない人口減少時代へと突入し、価値観も大きく変えていかなくてはならない。役所の考え方も取り組み方も大きく変化させる必要がある。役所で行っていた仕事、あるいはコンサルに投げていた仕事を極力減らしていく。そのぶん市民にお金を出して、市民の参加と市民の知恵を活用していく方向を目指す。その際のキーワードは「まあまあ、ぼちぼち、だいたい、てきとう」。

 効率性・画一性のまちづくりから、手作り・発酵のまちづくりへ。法律や規則に合わせるのではなく、一人ひとりに合わせた融通さ・自由さを大事にする。問題解決は行政やコンサルに任せたり金で手っ取り早く解決するのではなく、手間をかけて住民の話し合い・おせっかい・つながりで解決を目指す。いわば、化学肥料を使った促成栽培ではなく、天然酵母による自然栽培へ。結果的に、参加者一人ひとりが自分の言葉で語れるものにしたい。

 その当時一生懸命悩み、お金と時間をかけて頑張ってやってきたことも、40年経って後からふり返ると、実はどちらでもよかったことが多い。それであれば、頭で考えているより、街に出て実際にいろんな人に会って話を聞くこと、まちの人に自分たちで問題をとらえ、解決方法を考えてもらうことのほうが大事。人任せにせずに、あえてわずらわしい街をつくること。互いに顔の見える小さい単位にしていくこと。そこで時間をかけてやり続けていくこと。

◆  ◆  ◆

3.雑駁な感想をまとめてみた。

(1)いろんな人がいることについて

 まず印象的だったのは、同質の人だけが集まっているのではなく、いろんな価値観、いろんな立場、いろんな年齢、いろんな状態の人が一緒にいることが、実はそれだけで大きな力をもっている、ということ。誰でもそこにいられる、いろんな過ごし方が許容される、そこから少しずついろんな関わりが起きてくる。ときには失敗があったり、トラブルが起きることもあるが、それでも多様な人がいることによって、少しずつ何かが醸成されていく。認知症の人の記憶を呼び起こしたり、自ら役割を見いだしたり、あるいは重度身障児の身体能力を増加させたのは、専門的な介護やリハビリではなく、そこにいる人同士の関わりであり、そこから本人に生じた他者への志向性のようなものであった。

 高齢者施設はどんどんと入居者の重度化が進んでいる。特別養護老人ホームは要介護3以上の人だけが対象となった。施設を生活の場にすべく導入され、現在スタンダードとなっているユニットケアも、実際に現場をみると、生き生きした生活はなかなか感じられない。従来型の施設の共用空間のほうが、かえって賑わいを感じさせる場合すらある。ユニットという小さな空間にいるのが、車イスに座りきりの高齢者と、認知症の高齢者と、寝た切りの高齢者ばかりになりつつある。ほぼ全員が介護されるばかりの人で、自分の役割も居場所ももっていないように感じられる。自立度が低いのでしかたがないのか。もっといろんな人が入り混じる社会に身を置いたとき、そこで他の人と関わりが生まれ、その人なりの役割が発生し、生命力を取り戻すということがあり得るのかもしれない。そこに、ユニットケアの一つの行き詰まりのようなものを感じるのかもしれない。

(2)場所の力について

 廃寺を活用した西園寺の取り組みは、その場所のもつ力を再活用したことであり、また多くの人の手によって、その場所のもつ力をより引き上げていたようだ。寺の建物は、使いやすさや機能を計画されてつくられたものではない。しかしその建物の空間や素材には、長い歴史の中で、そのまちの文化や人々の記憶が蓄積されている。その環境は、訪れる人々の記憶に働きかけたり、さまざまな行為を自然に引き出している。訪れる人はその環境から受動的に力を与えられるだけでなく、みんなで片付け、リフォームし、管理することで、思い入れを蓄積し、場所の力を増幅している。人々が手をかけて少しずつ環境を発酵し、熟成させることで、いろいろな人々が集い関わる場所として維持されている。

 吉田市長の話にでてくる雑木林やでこぼこ道もまた、場所そのものに力がある環境のことを指しているように思う。それらもまた、人の使い勝手や快適性などを踏まえて作られたものではなく、人の思惑とは関わりなく、自然に生まれた形態であり素材である。そこには、思いも寄らぬ手触りがあり、つまづくことも転ぶこともあるが、確かな手応えを感じられる。多様性があり、さまざまな変化のある環境は、行為の手がかりともなり、他の人との話題のきっかけにもなる。バリアを極力なくして目的的に作られた環境は効率的であるが、手応えが感じられない。自分が働きかけたぶんだけ手応えが得られることは、その環境のありようを確認すると同時に、自分自身の存在を確認することでもある。その確かな体験は、個人的なものであると同時に、そこに居合わせる他の人と共有されるとき、豊かな楽しみとなり、生きている実感をもたらし、人を元気にしていくのかもしれない。

(3)まちを創ることについて

 シェア金沢の発祥は、高齢者が生きがいをもって暮らせるような「生涯活躍のまち」をつくろうとしたことではなかった。もともとは障害児施設からの発想であり、障害児が日常生活の中でもっといろんな人と関わりをもてるように、高齢者も障害者もまちの人も、ごちゃ混ぜにしていくことを目指している。そのために周囲から孤立したまちを作るのではなく、最初から周辺地域と関わりながら、地域の人がそこに集える地域資源として、シェア金沢を成立させようとしている。シェア金沢のプロトタイプが西園寺にあるというのは、まさにそうした意味においてだろう。メディアに取り上げられ注目されるシェア金沢よりもむしろ、西園寺だったり、B'sプロジェクトや輪島KABLETだったりという、まちそのものを対象にしたプロジェクトのほうが、佛子園の目指すかたちであるように思われた。

 いずれも、地域の拠点となる場所をしつらえ、そこを拠点として人々が集い、関わり、参加し、生活が再構築されていく。それがまちに広がっていくことで、まちの資源を活用しつつ、さまざまな人が混ぜ合わされ、まちそのものが変わっていく。さまざまな人を受け入れ、一人ひとりの生きがいや役割を発生し、高齢者や障害者や子供を含むあらゆる人の多様な生活を支え、促すようなまちへ。そしてそのまちをつくりあげるのは、他ならぬまちの住人であり、わずらわしいことを乗り越えながら時間をかけて熟成させていく。それが結果として、高齢者が生き生きと暮らしていけるようなまちとしても機能している。もちろんそれは、高齢者だけにとっての話ではないことが重要。

 日本版CCRCが制度化され、日本の各地につくられていくとき、果たしてこうした理念やプロセスまで含まれていくだろうか。制度はおそらく規制を緩和するかたちで、新しい施設をつくりやすくしたり、新しいサービスを付加しやすくするような方向性になるように思う。いろんな人を混ぜ合わせること、地域との関わりこそを重視すること、プロセスに手間をかけること、といった核の部分は、おそらく「制度」として馴染まない部分である。その結果、何も無いところに周囲とは切り離された形で、ハコモノと生きがいメニューとケアがセットになった新しい高齢者村がつくられてしまう危惧はないだろうか。

(4)目的的でない世界について

 「時間に追われる国」と「時間に追われない国」との対比は、ことさら印象的な話だった。前者は、目的を明確にしてその目的を効率的に達成することに価値観を置く。それ以外の要素は無駄なものとして切り捨てられていく。より効率を高めるために、人々の生活からも無駄なものやゆとりが剥ぎ取られ、疲弊していく社会。これに対して後者は、目的は不明確で、むしろ回り道したり道草したりしながら、そのプロセスを楽しむことに価値観を置く。役に立つものも立たないものも、多様な考え方、多様な過ごし方が受け入れられ、それぞれの人の存在そのものが価値あるものとなる。

 この話が印象深かったのは、以前から提唱している二つの環境行動モデル「意図遂行型」と「環境探索型」(あるいは「環境即応型」でもいいかも)との親和性を感じたためである。この2つは環境の作られ方のモデルであると同時に、その環境における生活のモデルでもある。「意図遂行型」とは、事前に自分の意図する目的を明確に定め、その目的をなるべく合理的・効率的に遂行するような計画を立てて実行する、という生活モデルである。これを踏まえた環境とは、人々の意図を先回りして捉え、その目的に応じて合理的に機能を配置した計画的につくられた環境である。これに対して「環境探索型」とは、目的は不明確なままとにかく環境の中をふらふらと探索していくうちに、さまざまな発見、出会い、相互作用が起き、時間をかけて少しずつ自分の行動パターンが定まってくるような生活モデルである。こうした生活モデルは、さまざまな環境要素が自然発生的に多様に蓄積された環境でこそ成立する。この両者は優劣をつけるものではないが、結果的に「環境探索型」を可能にする環境のほうが、多様な人の多様な生活を受け入れる許容性の高い環境になりうると考えている。

 「時間に追われる国」では、すべての行動を「意図遂行型」とみなし、眼の前の目的の達成だけが評価の対象となる。その結果、ゆとりや遊びや曖昧さは不必要なものとして排除される。しかし生活の豊かさをもたらしているのは、ゆとりや遊びや曖昧さによって、そこで意図せぬ出会いがあり、思わぬ発見があり、新しい物語が生まれるところにあるのではないか。「時間に追われない国」でぼちぼちと環境を探索しながら、他者と共感したり、自分の世界が広がったり、考えを変化させられたりする。誰にとっても自分なりの生活のかたちや役割が獲得できる。そういうことを許容したり促進したりする豊かな環境のあり方について、まだまだ模索していく必要があるように思う。


2016, Space Design Laboratory, JISSEN Univ.