tachi's COLUMN

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ものを媒介とした場の形成(2016.05.28)

 5月28日(土)人間・環境学会大会(@法政大学)において、「MERAライブラリー 〜もの(本)を媒介とした場の形成〜」が開催された。

 参加者はそれぞれ3冊ずつ本を持ち寄り、最初に4〜5人くらいずつに分かれた小テーブルで本の紹介をし合う。持ち寄った本は、自分が研究を志すきっかけとなった本、学生におすすめの本、ゼミや講義で使っている本、座右の本、注目の本、等々ということで、人間・環境学に関係のある多様な文献が紹介された。一人5分くらいで紹介をお願いします、ということだったが、みなそれぞれに思い入れのある本を持ってきているので、話し出すとだんだんと長くなる傾向。初対面で自己紹介といってもなかなか話は弾まないが、思い入れのある本について話す、ということになると、制限時間をついつい超えて伝えたくなるようだ。

 その後、近畿大学の鈴木毅先生と、法政大学の長岡健先生から話題提供。

  

1.「モノを媒介とした場の構築 〜人と人、人と世界を媒介する「モノ」」鈴木毅(近畿大学)

 まずは、最近増えてきているマイクロライブラリーや一箱古本市、近大英語村などの事例が紹介された。本を媒介とすることで、他では出会えないいろんな人と出会うことができる。本を媒介とすることで、誰でも簡単に出会いの場をつくることもできる。コミュニティカフェがあるだけでは、だれでも話が弾むわけではないが、本を媒介とすることで、初対面でもいきなり深い話ができる。英語村の面白いところは、本、マンガ、楽器、ゲーム、バスケットボール等々、英語を話す媒介物、きっかけに満たされていること。英語はコミュニケーションの道具であり、コミュニケーションのきっかけがいろいろあることが大事。

 シェア金沢を見たが、今まで見たどんな町よりも町らしい。高齢者・大学生・障害者・子供など、いろんな人がいて、いろんな店、いろんな場所、お酒・趣味活動・温泉・動物等々、人と人をつなぐさまざまな媒介物に満ちている。人と人が出会い、知り合い、教え合うためには、媒介のチャンネルは多いほどよい。集合住宅の動物禁止は、それだけでコミュニケーションのチャンネルを減らしてしまっている。

 建築の専門家は建築環境に頼りすぎて、媒介としてのモノの役割を過小評価している。モノそのものの専門家はいるが、環境の中にモノがどのように存在してどんな役割を果たしているのか、モノの配列を扱う専門家はいない。あらためて「モノ」を媒介とすることの意味を再確認すべきであろう。

2.「コラボレーションにおける「モノ」の意味」長岡健(法政大学)

 長岡先生は経営学部の教授で、現在のメインテーマは「創造的コラボレーションのデザイン」。具体的には、ワークショップで参加者がどうやって主体的になりうるか、相互に刺激し合う関係になりうるか、に実践的に取り組んでいる。話題提供では、自身のワークショップの取り組みについて紹介された。

 ワークショップの構成要素は、活動、参加者、空間、人工物からなる。社会学・経営学系では、活動と参加者については議論されるが、空間やモノについては考慮されてこなかった。そこで、コラボレーションを媒介とするモノを徹底的に仕掛けたワークショップを行った。

 食べ物、飲み物、音楽、DJ、道具に至るまで厳選し、みんなが参加して楽しめるプログラムを作り込んだイベントを行い、結果は大成功、みんな今までにはない楽しい雰囲気で盛り上がることができた。しかしそこに違和感を感じた。実は、与えられた環境に対するリアクションに満ちただけの予定調和の場になっただけではないか、という問題意識が生まれる。

 ブレヒトの「演劇論」によると、劇場には「カタルシス」と「異化効果」の2つの役割がある。「カタルシス」とは、予定調和による浄化作用であり、非日常的でその場限りの祝祭的な効果。「異化効果」とは、予定調和から脱し、むしろ違和感を与えて、参加者のアタリマエを揺さぶる効果。主催者が作成したシナリオと環境を受動的に楽しむ予定調和的なワークショップではなく、参加者が環境をつくり、参加者の主体的で即興的な振る舞いを生み出すような脱予定調和をどうデザインするか。その背景には、予定調和的にまとめようとしないアマチュアリズムの精神が大事。それは愛好精神と押さえがたい興味をエネルギーとし、専門の制限から自由になること。アマチュアリズムこそが、大きな俯瞰図を手に入れ、さまざまな境界や障害を乗り越えるための源泉となる。

 現在は、「自画自参」という即興的トークセッションを継続中。ここでは「ガチャ玉」を使って発言者とテーマをランダムに割り振っている。

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 以下、そのときに考えたことをまとめてみる。

(1)モノの役割について

 通常モノは、何かの役割を果たす機能として捉えられているのではないか。作業するためのモノ、遊ぶためのモノ、情報を扱うためのモノ、勉強するためのモノ。。。私たちの回りに存在するいろんなモノは、それぞれ特有の役割があって、その役割を果たせるようにデザインされ、その役割を求めていろんな場所に持ち込まれる。モノの存在は、人の要求・ニーズと結びついた道具として認識されている。

 そして、そのモノの存在は、その道具を使っている自分自身の姿を映し出す。そのモノがそこにあることによって、そのモノを使って仕事をしたり、作業したり、遊んでいたりする自分であることが確認できる。そこに置かれているモノは、自分の趣味や思い入れ、仕事や社会的役割など、あらためて認識したり行動を促されたりするきっかけとなる。

 さらに、モノはシンボルとしての役割も果たすだろう。自分の所有欲を満たしたり、自分のステイタスを他者に誇示するために、ある種のモノは所有され、ディスプレイされる。モノそのものの機能よりも、そのモノをもつことの社会的な意味が重視される場合である。このときモノは、ある種の情報伝達の手段となる。

 家の中には、実際に使っているわけではないけど捨てられないモノが山のようにあったりする。ただ勿体なくて捨てられないというだけではない。それが、昔使い込んだモノだったり、誰かからもらったモノだったりすると、そのモノには自分の体験や記憶が刻み込まれており、モノを捨てることが記憶を捨ててしまうことのように感じられる。そのモノの存在が、自分の過去や自分と関わった他者と現在の自分を結びつける媒介を果たしている。

 すなわちモノの存在は、個人的な記憶から汎用的な機能まで、見る人・触れる人に幅広い意味を伝達している。モノが場所に置かれ、誰かと共に見たり触れたりすることは、そのモノを共有することでもある。モノを共有することによって、そのモノのもつさまざまな意味を互いにやりとりすることが可能となる。そのときモノは、他者同士のコミュニケーションの媒介として作用している。その意味で、そこに多様なモノがある環境ほど、コミュニケーションのチャンネルが多様にあることを示すと考えられる。

(2)媒介としての本

 誰でも多かれ少なかれ、本を読んだ体験はある。本は、物理的な存在でありながら、その中にさまざまな世界を閉じ込めている。本を読むことは、絵本であれ、小説であれ、学術書であれ、それまで自分の知らなかった新しい世界に触れ、その世界を探索し、その世界から新たな価値を発見することでもある。そこで得られた価値は、一時的に消費されることもあれば、自分の奥底に少しずつ蓄積されることもある。時には今までの価値観を覆すほどの衝撃的な影響を受けることもある。本の種類にもよるし、読む人の読み方にもよるが、いずれにせよ、本を読むことは、私たちに影響を与える体験に他ならない。

 これまでにどんな本を読んできたのか、どんな本に興味を引かれてきたのか、という事実は、その人がどんな世界に触れてきたのか、どんな世界に触れようとしてきたのか、という経緯を示している。必ずしも、きちんと読み切った本だけではなく、かつて読もうとして手に取った本であっても、その人の興味や指向性、考え方や哲学の一端が示されているだろう。あまり本を読まないという人であっても、小さいときに読んだ絵本が、思わぬ形でその人の思考の基盤に影響を与えているということもあるかもしれない。

 本は、書き手と読み手との間のコミュニケーションツールであるだけでなく、読み手同士のコミュニケーションを触発する。同じ本(あるいは同じ書き手の本)を読んだことがある、という経験は、同じ世界を探検してきた、という共通認識につながるだろう。実は同じ体験を共有してきていた、という感覚は、価値観を共有する同士としてのコミュニケーションを促進する。あるいは、同じ世界を探検してきても、そこで得られたものは人によって異なるかもしれない。そうした影響の受け方の違いを互いに知ることによって、同じ本から新しい探索のしかた、新しい価値の見出し方に出会うこともある。

 本について語ることは、その本を通した自分自身を語ることでもある。通常、見知らぬ人に対して自分の考え方や価値観を語ることは難しいが、本について語ることで、その人自身の考え方や価値観が端々から滲み出る。他者同士がそれぞれ本について語ることによって、本人同士の情報がやりとりされることになる。それはまさしく、コミュニケーションが成立していることに他ならない。

(3)予定調和的な楽しみと脱予定調和的な楽しみ

 「予定調和的楽しみ」と「脱予定調和的楽しみ」という区別は、青木淳の「遊園地」と「はらっぱ」の概念を彷彿とさせる。

 楽しむことに対する人のニーズを捉え、それを叶えるべく先回りして綿密にデザインされた環境が「遊園地」である。そこでは種々の楽しみが提供されているし、いずれもニーズに対応した体験が提供され、満足感も高い。けれどもそれはあくまで、提供者側が意図し準備した楽しみの枠に収まっているものであり、そこから新しい何かが生まれることはない。楽しむ側はあくまで受動的に楽しさを享受する存在となる。

 いっぽうで「はらっぱ」のような環境は、とくに人を楽しませるためにデザインされた環境ではない。いろいろきっかけとなる要素はあるかもしれないが、ここではこのようにして遊ぶ、ということは定められていない。はらっぱは、そこに集う人が、その場所の環境や状況に応じて、その都度楽しいことを考え、自分たちで実践していくような楽しみ方をする場所である。実際にその場所へ行ってみないと何が起こるか分からない、今日と明日とでは、また異なる楽しみ方が生まれているかもしれない、そんな場所がはらっぱである。

 はらっぱでは、一人ひとりの考え方、一人ひとりの関わり方が、その場の雰囲気を大きく左右する。何もない場所で誰も遊び方を思いつかず、でも誰かが楽しみ方を教えてくれるんじゃないかと皆が待っているような状況では、結局楽しくも何ともないし、何を生み出すこともない。そうした状況を先回りして危惧してしまうと、なかなかはらっぱを作ることは二の足を踏み、みんなが楽しめる遊園地のほうを作りたくなる。はらっぱには何もないわけではなく、やはり人が関わりたくなるきっかけや仕掛けが多様に埋め込まれていることが重要なのだ。モノを媒介とさせることの意味はここにもある。

 その場がよい場になるような指向性を共有しつつ、既存の価値観や専門性あるいは経済性等から自由になって、一人ひとりの関わりやアイデアが引き出される、そんな環境と人の行動とが互いに作用しあう脱予定調和的な場の形成。それは、これからの環境行動研究の大きなテーマの一つに違いない。


2016, Space Design Laboratory, JISSEN Univ.