tachi's COLUMN

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プライベートがつくるパブリック(2018.10.25)

 10月20日に、法政大学において「まちづくり都市政策セミナー 縮退時代の都市空間〜ひとのつながりと居場所を問いなおす〜」が開催され、分科会「地域の関係を紡ぐオープンスペースの開き方」にコメンテーター(?)として参加してきた。柏市のカシニワ制度について鈴木亮平氏から、根津の藍染大通りについて栗生はるか氏から話題提供があり、「モテまち」谷亮治氏によるコメントを伺うことができた。忘れないうちにメモとしてざっくりまとめてみた。

(1)鈴木亮平氏:カシニワ制度について

 カシニワ制度は、千葉県柏市において、まちなかの公園不足解消のために、個で所有する空地(庭、里山、未利用農地等)を活用して緑を増やそうとする制度。その活用方法を考え、「みんなのカシニワ」「身近なカシニワ」の二本立てで展開している。前者は、地域みんなで手入れしてみんなで活用できるオープンスペースとするもの、後者は住宅の庭をオープンガーデンとして開放するものである。

 まず草ぼうぼうの土地を借り、みんなで草刈りをして広場として整備する(みんなのカシニワ)。とにかく楽しみながら草刈りできるように、一緒に花を植えたり、遊具をつくったり、BBQしたり。個人の土地なので、土地のオーナーがOKすれば花火もBBQもでき、規制の多い公共の公園と比べ、その時々のニーズに合わせて柔軟な使い方が可能になる。プライベートな土地だからこそ、地域にあったパブリックスペースを創出することが可能になるのではないか。

 もともとは大学の課題で、柏ビレッジ(宮脇檀)の再生に携わっていた。かつての良好な住宅地も40年経ち、さまざまな課題が噴出。活気が失われ人通りもなく、住民の高齢化に伴い、自宅の庭の維持にも苦労する状況。そこで、空き店舗を使ったり、空きガレージや庭を使ったコミュニティスペースの提案を行った。そのころ始まった柏市のカシニワ制度を利用して、実際に住宅の庭をオープンガーデンにして開放するとともに、園芸教室や草木染めなどのプログラムを埋め込むようにした(身近なカシニワ)。次第に庭を介して、物々交換や互いの庭を訪問するなどのコミュニケーションが行われるようになってきた。個人の庭を一時的にコミュニティに開くことで、街全体で維持管理する仕組みとなった。

 カシニワに屋内空間を置くことで、新しい活動の広がりが生まれるようになった。ちょっと休んだり集まったりできる場所として、ユニットハウス(コンテナ)を配置した。こうした室内の拠点をつくったことで、コーヒー教室や絵本読み聞かせなど、活動が緑地以外にも多様化し、関わる人も増えるようになった。

 最近では、福祉施設や保育施設と連携し、園芸療法や保育園の園庭として活用したり、農家の人による野菜販売(路地裏マルシェ)を行う。完全にボランティアとしての運営よりも、その場所を活用することでメリットを得られる人(農家、事業者、その他)が主体となって空地を管理するシステムを確立していきたい。

(2)栗生はるか氏:藍染大通りについて

 もともと祭りが好きで、さまざまな祭りがあると駆けつけていた。学生時代は、町家に使われるばったり床几に関心をもち、床几を倒すことで、道空間にパブリックとプライベートが混ざり合う現象に注目していた。

 文京区根津の藍染大通りで行われていた野外映画上映会に4年前に遭遇し、この通りを活動の拠点にすることにした。大通り沿いの歴史ある6軒長屋(戦災・震災をくぐり抜けた)の一室、もともと根津の大祭の際の御神酒所として使われていた空間を借りて改修し、多目的に使用できる地域サロン「アイソメ」を開設。1階はとくに機能を入れず好きなように使える地域サロン、2階はオフィス兼管理人用住居として使用する。ワークショップ、ギャラリー、宴会など、さまざまな使われ方をされているうちに、だんだん地域に馴染み、地域の人が集う場所になってきた。道端での将棋や麻雀など、外部空間にも自由な使い方が波及してきている。

 遊戯道路は、車の通行を一時規制して子供の遊び場にする制度で、1960年代に開始された。1980年代のピーク時には東京に2000箇所近くあったが、現在は841箇所に減少。遊戯道路に指定されていながら、住人に認識されていなかったり、活用されていない事例が多い。いっぽう藍染大通りは、活用のための地元誌も発行され、お祭りや綱引き、映画上映など、当初から街の広場としてかなり活発に使われていた。

 藍染大通りならではの特徴としては、(1)広さと立地、(2)活用の歴史、(3)キーパーソン、(4)バックスペース、の4つが挙げられる。(1)道の両側は商店街であり

、オープンな店構えが公空間と私空間をゆるやかに繋ぐ。通りは藍染町会の中央にあり、活用主体が明確。(2)前述したように、当初から住民による自主的な活用が行われていた。(3)当初から活用のためのキーパーソンがおり、現在も新しい人に受け継がれている。3人の子供もイベントに賑わいを与えている。(4)バックスペースとしてのアイソメがあることで、トイレ、水場、資材置き場が確保され、ワークショップやイベントなど通りの活用の幅が広がっている。

 藍染大通りは、シニア世代と若手世代、子供の世代を繋ぎ、豊かな関係性と適度な距離感を紡いでいる。それは来訪者に対しても、街の魅力を演出している。

(3)谷亮治氏:「もてるまちづくり」の視点から

 今回の分科会のテーマは「地域の関係を紡ぐオープンスペースの開き方」。いっぽうで関係を紡げないオープンスペースが多くあるだろう。基本的にパブリック空間とは、誰がいるか分からない、誰でも安心していられるわけではない空間。風通しはいいが、炎上しやすい。いっぽうプライベート空間は安心できるが、関係が閉じすぎてしまう。風が通らず、腐りやすい。プライベートが固定化すると、分断・孤立につながる。そこで、プライベートとパブリックのバランスをとるサードプレイスとしての居場所が必要になる。サードプレイスは、維持が困難。ティール型組織が注目されている。ピラミッド型組織は息苦しいし、フラットな組織では動かない。ティール型では、ミッションを共有すること、賞賛/制裁の社会的サンクションが重要。キーパーソンが重要な役割を担う。

 「町」という字は「田」(生産インフラ)+「丁」(交通インフラ)からなる。インフラを共同利用する人がいる場所こそが町。町としては、人々が同じ瞬間に場を共にする共時性(コンテンポラリー性)が大事。共時性は常設ではなく、仮設的な集団であること。常設できない集団をいかに維持するか、仮設の集団が「生まれては消える」サイクルを計画する必要がある。

 こうしたプロセスのデザインでは、本来の目的を打ち出して人を集めると、マニアしか集まらず、プライベートになってしまう。「サードプレイスをつくりましょう」というと、サードプレイスでお茶飲んでおしゃべりしたい人ばかり集まって、汗を流して維持管理する人が集まらない。似た話は、どんな活動でも実感しているのではないか。真の目的を隠して仮の目的で人を集め、結果的に目的を達成するような「方便プロセスデザイン」が大事。「空地を整備しましょう」ではなく「空地を整えてみんなでBBQしましょう」とすると人が集まり、結果的に空地も整備される。最近こうした「方便プロセスデザイン」によって、面白い試みがいろいろと発生している。

(4)公と私のつなぎ方にかかわる視点

 2つの事例で興味深かったのが、公と私の関係性についてである。いずれも、公共主体によってつくられる「公共空間」とは異なる、「私空間」「私活用」「私人」を媒介として、人と人をつなげる、人とまちをつなげるようなパブリック空間を創出しようとしていたように思う。以下、3つの側面から考えてみた。

1) プライベートを開く

 カシニワでは、プライベートな土地を活用するからこそ、自由で柔軟な取り組みが可能になり、多様な人の多様な関わりにつながるパブリックな価値をもつようになっていた。アイソメでは、周りから顔も名前も知られたキーパーソンが先導し、公共の土地に将棋や麻雀など私的な活動がはみ出していくことで、空間全体の多様な使われ方を引き出し、パブリック性を高めていった。ここに見られるパブリック性とは、プライベートを排除したところにあるのではなく、むしろプライベートな存在が核となり、そこから個人的に関わりが広がっていくことで形成されたものと言える。

 この場合のパブリック性とは、匿名性の強い不特定多数の場(Theyの場)とは異なる。プライベートとは、その人/その場所の固有性、唯一性に裏打ちされたものであり、他とは異なる交換不可能な存在である。プライベートな土地は、個人によって責任をもって運営されており、地域の中でその存在は認識されている。キーパーソンは、地域の中で顔も名前も認識され、逃げも隠れもできない存在となっている。その場所/人が自身の責任で受け入れることを認めることで、多様な人、多様な活動が受け入れられていく。そしてその場所/人に対して関わるとき、関わる側も個人として互いに認識し合いながら、その存在が受け入れられている。それは、それぞれ固有のプライベート性が蓄積され、重ね合わされることで生まれるパブリック性なのである。

 ただし、プライベートな場所/人は通常、自分にとって既知の人や活動は受け入れ、未知のものは受け入れがたい。自分にとって知っている仲間内の集まりは、それ以外には関わりを閉ざしたプライベートな集まりに他ならない(Weの場)。そこにパブリック性をもたらすには、未知の人や活動に対して開かれていることが大事である。プライベート性に内在する親しみやすさや安心感のある存在でありながらも、同時に未知なる他者、未知なる社会、未知なる活動に対して開かれているとき、既述したパブリック性を併せ持つ存在となる(Youの場)。

 Youの場では、そこに関わる一人ひとりの個人も少しずつ、自らが二人称的他者として、未知なる他者、未知なる社会に対して開いていくようになる。それは、その環境の主体として振る舞うと同時に、環境として振る舞うということかもしれない。環境として振る舞うというのは、自分の欲望やニーズを果たすだけでなく、その環境がそこに居合わせる他者にとっても居心地のいい場所になるように振る舞うことである。他者が居心地いい、嬉しいと感じることが、自分の居心地の良さ、嬉しさにつながるように振る舞うことである。そのように、そこに関わるプライベートな個人もまた、パブリックな性質を帯びるようになる空間/環境の性質を、パブリック性と呼んでいいのかもしれない。

2) 私的活動がつなぐ

 藍染大通りでは、アイソメを核としながら通りにまで道具や家具がはみ出し、公共の土地の一部を占有するような形で、私的な活動が行われるようになった。これは、公的空間を勝手に私物化しているというよりも、その活動が外の目に晒されることによって、のぞき込んだり話しかけたりと、その場に居合わせる人が気軽に関われるきっかけとなっている。そこで何をしているかが一目瞭然であり、活動している人も他者から見られることを前提に、オープンな態度で振る舞っている。ある意味、動物や小さな子供などと似た地域の「オープンな存在」になっているように捉えられる。そしてさらに、その空間で他にもさまざまな活動を行うことを促し、公共空間の利用の仕方に柔軟性や自由度を与えているようでもある。

 外部空間にユニットハウスやアイソメのような小さな室内環境を付加することも、空間の用途が広がるという効果とともに、活動がその瞬間固定化され、可視化されるという効果もあるのかもしれない。オープンスペースでの活動は、その活動の目的やルールが参加者以外からは把握できず、ともすると参加者だけに閉じてしまう。オープンであるが故にクローズドなものになる、という側面があるかもしれない。その場にあって目に見える道具や空間などの環境装置があることで、そこでの活動が外に対して目に見える、理解しやすいものになり、外からアクセスしやすいものになるのではないか。そして、その環境装置のさまざまな使い方、活かし方が具体的に想像しやすくなり、多様な活動を展開する手がかりを与えてくれるようにも思われる。

 さらに、「まちづくり」や「活性化」といった「公共的」な価値観を掲げた活動は、多くの人にとっては敷居が高く、一部のマニアに限られてしまうことは、谷氏のコメントでも述べられていた。こうした室内空間で行われる活動が趣味や楽しみをベースとしている私的なものであるほうが、個人的な興味によって外からのアクセスをしやすくしていることも考えられる。

3) 日常/非日常が蓄積される

 今回の事例にみられるパブリック性は、そこに関わる多様な人の日常的・非日常的な関わりが積み重なることによって形成されたものである。いろんな人が直接その環境に関わり、少しずつ影響を与え、そこで見られる振る舞いや行われる活動が変容している。その結果、さまざまな規制によって使われ方の限定された「公共空間」よりも、自由度・柔軟性の高い空間になっている。蓄積された環境は、より多様で豊かな関わりを促し、人々の共有感を高め、そこに小さな文化を形成する。

 公園にしろ、公共施設にしろ、少しずつ規制が強くなり、そこでの過ごし方・振る舞い方は限定されてきているように感じる。制度やルールによって許容される振る舞い方のレンジの狭い環境は、人と環境との関係が固定化され、硬直化する。そこには人々による関わり方は蓄積されない。たとえそこに多くの人が集っていたとしても、その空間特有の文化のようなものは感じられないだろう。

 藍染大通りには、これまでの活用の積み重ねによって、その場所特有の文化が生まれているように見える。文化というと、一面では人の意識や振る舞いを拘束してしまうイメージもあるが、実は根津のような下町には、新しい人を柔軟に受け入れていくような、閉塞的ではない文化の蓄積があったのではないかと思っている。アイソメという拠点ができたことで、より多様な人、多様な活動に開かれる余地が生まれ、新たな蓄積によって日々その文化は更新されていくのだろう。

 カシニワ制度は、ニュータウンのような公共的に計画され、文化が蓄積されにくい地域のなかで、地域の人のさまざまな営みを着実に蓄積させる役割を果たそうとしているようにも思える。お祭りのような一過性のイベントではなく、私空間にさまざまな人の関わりが日常的に蓄積される仕組みとも言える。小さなカシニワも、その一つ一つに小さな文化が紡がれ、それが地域の中で重ね合わされていくことで、町が豊かなパブリック性をもつためのきっかけ・手がかりとなりうるのではないか。


2018, Space Design Laboratory, JISSEN Univ.