tachi's COLUMN

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個人の自立を保証するしくみ(2018.11.26)

11月23日に、環境行動研究小委員会主催の公開研究会「人の自立をささえる北欧の多様な居住環境デザイン 〜社会システムと場所の質からよみとく北欧の「ふつう」の生活 その3〜」が行われました。天気のいい祝日だったこともあってか、参加者は20人弱でしたが、きわめて内容の濃い研究会になりました。登壇していたためきちんとメモがとれていませんが、忘れてしまう前に、おぼろげな記憶を頼りにまとめておきます。

(1)「すべての人の暮らしを包括的に支えること」宮城学院女子大・厳先生

 精神障害者に対する対応を日本とフィンランドで比較すると大きな違いが見られる。日本では、個室や共用空間など、空間を充実させて対応しようとしているが、生活の質を向上させるためのプログラムやマンパワーが不足している。フィンランドでは、患者に寄り添うマンパワー、行為や交流を促すしつらえ、患者の地域生活のための充実したプログラムがある。自治体の合理主義・実践主義的取り組みだけでなく、障害者の自立に対する地域の理解が大きい。社会の成熟度・民度の差が感じられる。

 フィンランドの教育では、すべての人が個別であること、個別の考えを持つ権利があることを強調する。同じ考え方、振る舞いに導こうとする日本の教育と大きく異なる。北欧の「ふつう」が日本では「ふつう」ではない。

 Uusix-workshop。精神障害者の就労支援を行っているが、失業の要因によって区別することなく、すべての失業者を対象に就労支援を行っている(アルコール中毒、引きこもり、等々)。廃棄物を活用して、リサイクル、実用品へのリデザイン、アート等のスキルアップを目指す。実際には、思い通りのサポートが行えず、スキルアップが難しいことも多く、作成品の市場への乗りにくさなど、さまざまな課題があるが、この取り組みの意義・役割は社会的に認識され、試行錯誤しながら活動を続けている。

 障害児の居住施設(?)。居住の場として質の高いデザインで、子供や親が集う共用空間、施設内で教育を行える教室空間などもある。18歳になると卒業して一人暮らしをするが、そのための集合住宅が、ふつうの住宅地の一角につくられている。1階は共用空間でさまざまな機能が充実。コミュニケーションを支援する仕組みにも配慮。居室は住宅としての質が確保され、狭いながらも玄関、キッチン、寝室、リビング等の空間が確保されている。障害の有無にかかわらず、質の高い居住環境で生活していくことが「ふつう」であると認識されている。

 重度の高齢者グループホーム。居住者の男性がデイサービスに来ていた女性と出会い、施設側の勧めでGHに同居することに。つねに一緒に仲の良い姿が見られた。男性はその後弱って亡くなってしまうが、人生の最後に豊かな生活ができたのではないか。それを可能にしたスタッフの柔軟な対応がある。ここの運営者は、認知症高齢者のための宿泊施設を建設中。通常認知症になると旅行どころではなくなるが、こうした施設があると、本人も家族も安心して宿泊することができる。その取り組みに対して、市も補助金を出している。

 いずれの事例も、どんな状況になっても、これまでの暮らしが継続されることが「ふつう」である、と共有理解されており、そのために住まい・就労・余暇のサポートが柔軟に行われている。一人ひとりが自己責任で個人として生活する・振る舞うことを前提としながら、互いの強い信頼によって成り立つ社会と言える。

(2)「コレクティブハウスにおける協働と看取り」東洋大・水村先生

 日本ではかつては多くの人が自宅で亡くなっていたが、現在では病院で亡くなることが圧倒的に多い。近年「Good Death」という概念で、慣れ親しんだ環境・家族に囲まれながら平穏な心で過ごすことの重要性が注目されている。こうした視点から、日本のサ高住、スウェーデンの安心住宅、およびシニア型コレクティブ住宅を、「Extra-Care Housing」として位置づけ、比較した。

 「サ高住」は、60歳以上を対象とした賃貸住宅(有料老人ホームと被る事例も多い)で、近年住戸数が激増中。住戸面積は25F以上(共用空間があれば18F以上)。相談・見守りサービスが付帯。

 「安心住宅」は75歳以上を対象とする公的賃貸住宅。面積は35F以上だが、既存ストック活用のためピンキリ。相談・見守りサービスが付帯。

 「シニア型コレクティブ」はストックホルム市の制度。40歳以上の単身または夫婦世帯。共有のキッチンやダイニングなどが豊富。スタッフはおらず、自分たちで維持・管理・運営を行う。共同で食事をつくり、フリーマーケットで運営資金を稼いだり、機織り、工房での大工仕事、趣味活動など。積極的に入居してきた人は少ないが、互助・共助の場であることが、帰属感や安心感に結びついているとされる。

 日本のサ高住は、職員配置による施設ごとの差はあるが、医療・福祉サービスを併設することが多く、多くのケースで認知症の状態でも受け入れ、看取りも経験している。スウェーデンの安心住宅は、施設側も本人側もそこが週末を迎える場と認識して折らず、実態としても看取りを行っていない。いっぽうシニア型コレクティブでは、よほどの事態でない限り居住が継続され、看取りの場として機能している。住民同士の協働によって、生活の支援から看取りまでが実践されている。

 スウェーデンでは、これまでの取り組みによって良質な住宅ストックが蓄積され、8割の人が質の高い住宅に暮らしている状況。居住の基盤が整備されていることは重要。その上で、孤独に陥りやすい高齢者のために「協働して暮らす」仕組みが有効だろう。

(3)「ひとり親やDV被害者のための居住支援」立教大・葛西先生

 2001年にDV防止法ができ、DVシェルターの実態調査など行ってきた。日本の出口の見えない状況に対し、デンマークの社会的な支援システムから学ぶ。

 日本は、ひとり親のこどもの貧困率が国際的にみて最も高い。所得の再配分後にこどもの貧困率が高くなるのも日本だけであり、格差が広がっている。日本ではシングルマザーが低賃金の職にしかつけない状況にあり、働いても貧困に陥っており、こどもと過ごす時間も奪われている。シングルマザーになった要因で使える制度に差がある。死別の場合に比べ、離別や未婚の場合、使える制度も少なく、社会の風当たりも強い。自己責任論が吹き荒れる。2013年に子供貧困対策法ができ、こども食堂などの取り組みも増えるいっぽう、生活保護費の切り下げが行われ、ますます格差が助長されている。

 DV被害者である女性は、一時保護を受けようとすると、加害者から身を隠すため、仕事も辞め、こどもも学校に行かせず、携帯電話も没収され、外出も他者との接触も禁止される。住居も財産もコミュニティとも切り離され、収容所のような場所での「隠れた」生活を強いられ、「ふつう」の生活が剥奪される。こどもに対するケアも配慮もない。そうした状況から社会に復帰して自立するためのサポートも行われることなく、貧困に陥ることになる。そのため保護を諦めざるをえない人も多い。

 デンマークでは、保護された日から「ふつう」の暮らしが保証される。シェルターでは、こどもに対するケアが徹底され、落ち着いて過ごせる場、現在の状況を理解する仕掛け、その場に馴染みやすくする工夫があり、こどもの遊ぶ空間・時間がしっかりと保証される。親子で居心地良く住めるように工夫された居室、一人でいるのが不安な人のための共有空間が整備されている。外出・通勤・通学も可能で、隠れない生活が基本。退去後の住居も市によって保証される。シェルターの情報は公開されているが、警察や地域との連携を密にして、安全と安心を保証している。

 デンマークは世界的にみてもひとり親の割合が高い。ひとり親になる理由を問わず充実した支援が受けられ、社会的な受容度も高い。住宅や教育が保証され、養育費の支払いも国が保証する仕組みがある。ひとり親の教育支援のための奨学金もあり、大学や大学院に通うためのシェアハウスもある。ひとり親の学び直しをサポートし、スキルアップして社会で働くことがスムーズになる。ひとり親でも夢を諦めなくていい社会。

 デンマークでは、多様な世帯、多様な状況に置かれた人々への理解と、支援に対する社会的コンセンサスがある。「ふつう」の生活を保障する社会システムが築かれている。その結果、DV被害者にとっても、その支援者にとっても、国に対する絶大な信頼感が生まれ、おそらくそうした信頼感が社会を再構成するバックボーンにある。

(4)「我々は「ふつう」暮らしをどうとらえ、どう参照すればよいのか」実践女子大・橘

 環境行動研究の原点の一つは、スウェーデンで研究した外山先生の「Identity and Milieu」に遡る。そこでは、人と環境とが相互に影響を与え合い、密接な関わりをつくることが、生活の質を高め、本人のアイデンティティに深く関わっていることが実証的に示されている。そうした関わりを作り出すために、日本にもユニットケアやグループホームなどが導入されてきたが、それらが制度化し普及するとともに、その関わりは硬直化し、施設化へ逆行している現状になっている。北欧に目を向けることは、単に見た目のデザインや制度を参照するためではなく、環境との豊かな関わりをつくることが豊かな生活をつくるという、環境行動的価値観をあらためて検証することに意味がある。

 北欧では、どんな人に対しても「生活の質を保証すること」に対する価値観が、国レベル、自治体レベル、現場レベルで共有されているのではないか。それは、救済したりサービスを与えるのではなく、本人の主体的で個別な生活を保証することにある。それがすべての人に保証されるべき権利であり、それを保証することが社会の使命である、という共通理解である。その理解を背景として、基準や制度によるのではなく、さまざまな状況に対して、現場の関係者がその都度検討し判断し実践することが合理的である、という判断につながっている。

 北欧で理解されている生活の質とは、「居住」「就労」「余暇」の三本柱であり、それが3つとも揃った状態が「ふつう」の生活である。従って、「ふつう」の生活を保障することとは、この3つの側面とも(ばらばらにではなく統合された状態で)保証することに他ならない。そのための基盤となる環境を整え、有効に機能するための社会システムを構築し、現場の判断で柔軟に運営されている。

 こうした考え方の背後にあって共有されている2つの価値観があると考える。一つ目の公共的価値観とは、自立した「個人」をベースに、その個人が社会を支えるという価値観である。一人ひとりの異なる「個人」の自立をサポートし、自立した「個人」が「社会」に接続するためのプログラムやシステムを整え、その結果こうした「個人」が社会を再構築するための担い手となっていく。二つ目の合理的価値観とは、基準や前例、目先の経済的利益にとらわれずに、有効な方法をさまざまに模索し、有効性が明らかになればどんどん取り入れていこうとする価値観である。また、一人ひとりの個別性を前提とした場合、一律の基準をつくるよりも、必要な方法をその都度検討して実践するほうが合理的だ、という価値観でもある。それは成熟した社会におけるコミュニケイティブな合理性の発露として捉えられる。

質疑

Q.日本ではDV被害者の居所をとにかく隠して保護しようとするが、デンマークではシェルターの住所も公開されており、どうしてそうしたことが可能なのか。
→一つは警察との連携。連絡すればすぐに駆けつける体制が整えられている。またDVを許さないという地域のコンセンサスがあり、地域で守っていこうとする意識がある。そもそも被害者のほうが隠れて生活しなければいけない状況がおかしい。ただしムスリムの場合は事情が異なる。DV被害自体は全体に減少傾向にあり、その中でも移民による被害が増えている。

Q.最近でも青山で、児童相談所の設置に対して反対運動が巻き起こった。北欧ではそうしたことはないのか。
→実際に反対運動が起こることはある。とにかく根気よく説得を続けていく。一つの施設を建設を地域の人が了解するのに5年かかった事例もある。できてからも地域との関わりが大事で、地元の理解が深まることも多い。根強く頑張っていきましょう。

Q.実際に北欧で生活してみた経験から、コミュニケイティブな合理性が重視されていた具体的な例はあったか。また逆にコミュニケイティブであることによる弊害などもあるか。
→北欧の役所の人は、日本のように定期的な異動がなく、スペシャリストになる。基準や制度に照らすのではく、現場でその状況を勘案して判断している。判断できる人材が現場にいるということ。障害等級や要介護度の概念もない。高齢者の状況はその都度変わるのに、一律の基準の適用は不合理である、という考え方。弊害としては、やはり手続きの手間がかかること。都市開発などでも、広く市民に意見を求め、その意見には一つ一つエビデンスをもって回答していく必要があるので、なかなか開発が進まないこともある。
 日本の細かい制度は、人が悪いことをしないように、性悪説的につくられている。何か問題が起こると、次にその問題が起こらないような細かいルールが作られる。いつの間にか、ルールを守ることが目的化していくことで、窮屈になっている。大学の細かな手続きなどその極み。北欧ではそんな無駄な手続きはない。性善説に立って物事が決められていく。

Q.北欧の社会の時間的感覚の違いが印象的。失業者に対する就労の支援にしても、ひとり親の就学支援にしても、いずれその人が社会に還元するまでの長期的な視点でプランニングされているように見える。そうした視点が共有されているのはなぜか。
Q.結局日本では、男性が外で働き女性は家を支えるべき存在、という考え方が根強い。離婚した後で学び直そうと思ったら、そんなことしないで少しでも働け、と言われるような状況。そうした意識を変えないと何も変わらない。
→北欧諸国も、経済的な危機や周辺国からの侵攻による国家存立の危機など、何度か危機的な状況を迎えている。大国の狭間で、小さな国としてなんとか生き残るためのさまざまな模索を行ってきた。そんな中で身についた視点かもしれない。あと、生活の中で「居住」「就労」「余暇」のバランスを大事にしている。そのバランスを保つための仕組みを重視している。
 スウェーデンにはDesign for Allという言葉がある。すべての人の生活を守るために国がある、という考え方。個人が個人として生きていける社会システムを長期的に作ろうとしてきた。選挙時には、各政党が小学校に来て政策を説明し、こどもたちも議論に加わる。国の政治を考えることが教育に組み込まれている。日本は短期的な視点での利益追求ばかり目が向き、そのため個人の選択肢は増えているものの、かえって貧困に陥っている現状がある。

まとめ(東京理科大・垣野先生)

 北欧は物事を前に進めるための明確な概念化がうまい、という印象。それによって合理的に物事を進めている。

 北欧は、まず一人ひとりの自己が確立し、それがしっかりと守られた社会。それに対して日本は、個人がなく、「私たち」を守ろうとし、「私たち」に入れないものに対しては冷たい。その「私たち」も、自分で決めたものではなく、人から決めてもらった「私たち」を演じているような、倒錯した状況に感じられる。

 日本の状況を知るためには、「私たち」の中にいてもなかなか分からない。外に出ることで「ふつう」じゃない状況が見えてくる。北欧諸国は、そのように日本を相対的に捉えるための指標となりうる。

 社会を変えていくためには「教育」から変えていくことが重要。「教育」によって、社会的意識、価値観を少しずつ変えていくこと。


2018, Space Design Laboratory, JISSEN Univ.