現象学から考える  

人間−環境系理論検討SWG(「環境心理研究の方針と現象学」 rewrite version 2002.7より)

 千葉大の高橋さんは、私より若いのだが、はるかに落ち着きを感じさせる人物である。司会や討論の総括などをさせると天下一品で、よく全体を見通して発言ができるなあと感心させられたことが何度かある。その彼が困っただろうのが、ここに紹介する現象学の本を読んで研究のやり方について提言した発表である。
 彼に誘われて参加したSWGだが、私は異端児であった。つまり、他の人は哲学そのものに興味があるのだが、私のそれは薄く、哲学が日常の研究活動に生かせるかどうかに視線が注がれているのだった。しかも、その結果はさほど役に立たないという感覚だったので、発表も現象学では括ることができないものとなり、それで司会者の高橋さんを迷わせてしまったのではないかなあと思っている。しかも、発表自体もきちんと整理し切れていない話題を扱っていたので、わかりづらかったという評判であった。
 そこで、少しは整理をして再度話をしてみようと思う。リベンジなるか?

※現象学が役立たないと書いたのは語弊があるかもしれない。もうすでに私たちの研究活動に入り込んでしまっていて、当たり前と感じるようになっているので、新しいインスピレーションを得られることは少なかったという意味である。つまり、非常に大切な事柄を世の中に提出した大先輩の業績であることは間違いない。

 それでは始めましょう。

発表趣旨

現象学関連の本を3冊読んだ。基本的にメンバー全員がレジュメを作ってきて発表する。面白いもので、あまり内容が重ならない。全体をしっかりまとめてくる人、他の哲学との関わりを論じて幅を拡げる人、建築の中での位置づけを考える人...などなど。少人数のせいか、みんな宿題をやってきた。

■現象学  木田元、岩波書店(岩波新書)
 これは、日本の現象学研究者の草分けによる現象学の入門書。

■生態学的視覚論 ギブソン、サイエンス社
 もしかすると、建築の環境心理関係の人の方が、心理の人全般より知っているかもしれない。アフォーダンスという人間と環境をつなぐ概念が設計に役立つと考えられているからだろう。

■実存・空間・建築 シュルツ、鹿島出版会(SD選書)
 スウェーデンの建築学者による本。読んでもよくわからなかった本。私は、この本の発表会を欠席したのだが、それがいけなかったか。
     ↓
 それで心に残ったフレーズと、日頃、研究をしていて考えたこととの関わりを整理して提示してみようという企画である。

本に表れた問題意識

■■主観−客観図式の克服(←「現象学」を読んで)

「人間の感覚を通じて、はじめてものの存在があるのであって、そういう感覚を離れても、なおものがあるかどうかということが、盛んに議論された時代があった。この種の議論は、けっきょく議論だけに終わってしまうことが多い。
 科学というものは、そういう議論を単純に振り切って、一番昔の素朴実在論に帰ったところから出発したのである。」(中谷宇吉郎:科学の方法、岩波新書、1958)

※迷解説
 疑おうと思えば疑える。キリがない。
 夢と現実と、どちらがどちらか証明できますかと問われると自信がない。自分の周りには家や学校があり、家族や友人と会っているのも夢かもしれない。でも、みんなが地面があり、人が暮らしていると思っているじゃないか。そう言うと、集団催眠みたいな話を持ち出されて、頭の中が混沌としてくる。これはすべて私だけが感じていることなの?
 そういう状態から抜け出すためには、客観的な世界を一旦排除し、主観的な世界だけだと考えるとすっきりする。そして、客観的な世界は主観世界が共有されることで感じ取られているのだと考える。だって、自分が赤になったと思った信号で、「信号が青になったから渡ろう!」と言われるという事態が続けば、客観世界なんて信じられなくなってくるものねえ。共有されるとは、「他の人と同じに感じてるんだ」という感じが基になっているのだ。
 共通理解と、それに基づく主観による記述を認めるというやり方は、中谷宇吉郎が言う素朴実在論と近いのではないか。科学が一番力を持っていた20世紀初頭。科学という現実世界を切り刻む学問の存在が無視できなくなった時、哲学には主観−客観図式の克服という課題が喉元に突きつけられた。この2つの折り合いをつけ、現実を捉える科学との橋渡しをしたのが現象学という哲学ではないか。

■■アフォーダンス(←「生態学的視覚論」を読んで)

「ずっと昔の英国の哲学者が引いた例であるが、たとえば棒で頭を殴ったり、あるいは針で手をついたりしたときに、誰でも痛いと感ずる。このとき痛いというのは結果で、針で手をついたことが原因であると普通にはいわれている。しかし、針で突いたことは、痛いと感じたことの原因ではなく、針で手をついたために、手のところへいっている神経の先に、歪みがかかったことが原因であると考えるべきである。しかしそれもまだ原因ではない。そういう神経に与えられたゆがみが、脳に伝わったことが、原因と考えた方が更にいい。ところが脳に伝わったことが原因かといえば、そうでもないのであって、そのために脳の細胞がある刺戟を受けたこと自身なのである。そうすれば、原因も結果もないことになってしまう。」

※迷解説
 アフォーダンス理論では、意味は環境から直接知覚されるとし、脳内での処理が必要だと認めていない。これは極端なので批判がある。私自身、なぜそう考えるのかが長らく理解できなかった。この中谷宇吉郎の文章は、それを少しだけ解きほぐしてくれた。
 何が原因で何が結果かを論争するのではなく、環境の中の刺激となる要素に着目し、それがどんな情報となり行動につながるのかさえ分かればいい。そうすれば、脳内処理の過程など明らかにする必要無しという宣言なのではないか。
 こう考えてくると、S→R図式の復活のようにも見える。処理過程の外在化か?

「空間とそこでの出来事のパタンは分離できない(アレグザンダー:時を超えた建設の道)

※迷解説
 アレグザンダーのこの言明も、アフォーダンスの考え方に近い印象を受ける。主要因と反応のセットを考案したのではないかと。
 原因を外部環境に、それを処理した結果が反応として表れるという考え方との違いは...何もないじゃないかって。
 あるとすれば、知能みたいな高次の処理も、幾つかの単純なユニットの働きを合成することで表せると考えることだろうか。この辺りは、「佐々木正人:アフォーダンス 新しい認知の理論、岩波書店、1994」にあるクリーチャーの話が参考になるだろう。情報処理を統合する「メタ・ユニット」の存在を仮定しない情報処理は、環境と人との関わり合いに、新しい視点を提供したことになるだろう。
 もっとも、アレグザンダーは情報処理の過程を意識していると思うけれど。建築デザインのような統合作業が必要そうな作業でも、メタ・ユニットを仮定しないで、やっていけるだろうか。

「科学の世界では、よく自然現象とか、自然の実際の姿とか、あるいはその間の法則とかいう言葉が使われるが、これらはすべて人間が見つけるのであって、その点が重要なことである。」(中谷宇吉郎:科学の方法、岩波新書、1958)

※迷解説
 S→R図式のように、環境に100%の意味を持たせてしまうと、行動の多様性とか柔軟性とか、我々が頭の中で考えているという素朴な観察を否定することになってしまう。アフォーダンスにもその危険性がある。
 それで、私は環境の解釈には限定された可能性があって、状況に応じて人々がその中の一つをつかみ取って来るというモデルを考えている。まだ論文書いてないけど。
 そうすると、自然界は変わっていなくても、解釈は変化していくという成長の話などもしやすくなる。情報は環境に存在するが、どれを感じ取るかは人の状態による。
(S→(O)→R)的? −そうですね。(O)→(S→R)とでもしておきましょうか。

「今日の科学の中には、形の問題はほとんどはいっていない。「茶碗の曲線」にくわしく書いてあるように、梅の枝ぶりと桜の枝ぶりとは、葉がなくても、一目見ればわかる。しかしその差を量的に表そうとすると、なかなかむつかしい。...分析しても差が出なくて、全体として見たときに、梅の木か桜の木かということが一目で見分けられる。そういう性質の問題は、今日の科学の中には、取り上げられていないのである。」(中谷宇吉郎:科学の方法、岩波新書、1958)

※迷解説
 科学では扱いづらいが、人にはすぐわかることがある。こういうことは、「科学的」とは言わない。
 椅子を定義せよという問いが難問であることは、明らかにされている。「平らな座面がある」に対しては、円筒形の座面を持った椅子を反証として挙げてよい。脚が4本あるは、一本の椅子を持ってくればいい。脚のないソファみたいな椅子もある。寝そべって使う椅子もあるし、膝の高さに座るものもカウンターの椅子のように足がつかない高さに座るものもある。すべてに共通する要素などないのではないか。
 工学的と言われるかもしれないが、厳密な定義ではなく使える定義というのを考える時、言葉は有力である。
 従来の「科学的」とアフォーダンスは相性が悪いようだ。しかし、気にしている風でもない。共感に基づいているからだろう。
  ...「わかるんだから、いいやんけ。」という開き直り

■■時間(生態学的視覚論)

「彼は、顔かたち、体型、言葉、すべてを変えていた。しかし、彼が笑ったとき、親しい人達には彼であることがわかった。」

※迷解説
 これは、うろおぼえの文章なのだが、確か軍事政権下で逃亡したチリの映画監督が隠密理に帰国した際のエピソードである。
 私は、スライドの評価実験で学位を取ったようなものだが、この本を読んで、刺激は固定されたものではなく、変化の中にも存在するということを意識することになり、それがスタティックな情報とどのように違うのかを明らかにする必要性を感じさせられた。
 アフォーダンスでは、時間の中で変わらない要素=不変項が重要な情報であることを強調している。


「人間ー環境系」研究への橋渡し

■■本質は抽出できるか? 記述できるか?

 →個人差・状況差解釈へのヒント

■本質って何?

  個人差や状況差を乗り越えたもの? =因子みたいなもの?
  それとも、定義(デノテーション)のこと?
※迷解説 その1
 現象学の本を読んでいると「本質直感」というのが出てくる。私のものすごく浅い読みによれば、物事の本質を直感的に把握することである。そのために、普段のいろいろなしがらみを取り払う「アポケー(判断停止)」という作業は必要になるとするのだが、そうすれば、本質なんてものがわかるのだろうか。
 こういう議論の源流にはプラトンのイデア論がある気がする。蝋燭に照らされた洞窟の比喩にあるように、我々が見ることができるのは本質ではなく主観的な現実である。しかし、主観的現実を客観的にするために多少の努力をすれば本質にたどり着くというのは、ちょっと楽観的すぎる気がする。

■因子は本質ではない

※迷解説
 さて、統計解析手法で本質にあたるものを取り出そうとしているのは、因子分析だろう。観測できるさまざまな変数の根底にある共通する成分を取り出そうとする。しかし、数十回に渡って印象評価データを因子分析した経験に基づけば、因子の解釈は私の常識に基づいたものである。
 このあたりは、「印象評価解析における因子分析の使用法」という文に書いたことがあるのだが、降雨量と作物生産高に共通性があった場合、「ははあ。雨が降ると作物がよく育つのだな。」と解釈するだろう。測定できない共通の因子があるなどとは考えない。この解釈が妥当かどうかは、周辺に持っている情報(データ)に依存する。決して、偏見を取り除くアポケーによって得られるのではなく、正確だと考えられる豊富な情報(正確な偏見?)と論理的な推論から導かれるのである。
 したがって、私にとってのアポケーは、一見真実のように見えながら、実は嘘だという我々を惑わす情報とか考え方から自由になろうということであり、そのためには自分がどういう情報に惑わされやすいかという情報が必要になる。心頭滅却しただけではだめなのではないかと思うのである。
 ということで、
  結局、解釈の問題
   本質直感などというかっこいいものではなく、常識を問われる
 ということになる。だから私は常識を磨け、と学生に言い続け、もし私の方が学生が気がつかない本質的な点を指摘する回数が多いとすれば、それは私のアポケー能力が高いのではなく、私の常識力の方が勝っているからだと考えるのである。

■傾向の記述

  →傾向は記述できるが、それが正しいかどうかは常識でチェックできるのみ
   (チェックは、これまでの研究成果、経験が頼り)
   (「絶対(=客観)」でも、「恣意(=主観)」でもないもの)
  →それでもわからなければ、データを取る
※迷解説
 大体において、本質ってなんだろうか。辞書的な定義のことなら、辞書を見れば分かるだろうから、そうではないはずだ。
 E.ロッシュのカテゴリー論(=プロトタイプ論:「曖昧な定義の問題」で詳述)では、言葉に属するすべてに共通の特徴などないという現実が示されている。これについては、椅子の例を前に挙げた。ウィトゲンシュタイン(だったと思う)のゲームについての話も有名である。(=囲碁と将棋なら共通する要素もあるが、トランプとラグビーにどれだけ共通する要素があるのだろう...) すると、本質などなく、「〜らしさ」に関わる要素が幾つか存在するだけではないか。
 最近(2002.7頃)、たまたま非常勤講師室で話をして知り合った言語学の先生に、認知意味論という分野があることを教わった。わざわざコピーを取って下さった入門編の文章には、ソシュール以来の流れ、言葉の意味が辞書的な意味と百科辞典的意味(辞書的な意味以外の諸々。「犬」という言葉には、犬の定義以外にも、ペットとして飼っている人がいるとか、従順だとか、肉が好物だとか、様々な情報が絡んでいる。そういう意味のこと。)に分けることができるという考え方とは異なった考え方、つまり、それらが渾然一体となった意味論があること、文法でさえも意味表現の一部として捉える考え方があることなどが示されていた。
 これらは、先験的に(ア・プリオリ)に与えられている情報などなく、人々が環境との関わり合いの中で、意味を見いだしていく状況が綴られているのだと見ることができる。
 本質論というのは、こういう考え方と相容れない気がする。私は、誤った解釈をしやすい人間に、きちんとしたデータを与えて、相応な解釈をすることが現実的な対応だと考えている。そこで、「直接、人に聞く」という偏見がもろに出てくるやり方ではなく、「評定データを元に考える」というより客観的なデータを元に考えるやり方を取ることがある。この場合、私自身にきちんとしたデータを提供することが主眼であって、それがなければ私は偏見を取り除くことができない。


わかるということ

 この話題はそのうち、「ちくりんのたわごと」に書こうと思っているので、簡単に...。本質の理解が「ユーリカ!(byアルキメデス)」という言葉と共に為された時、それは本質直感なのかというお話。いや、それにつなげたいお話。

■疑う理由がなくなるということ
 ・「女子大生で実験したとのことですが、老人では違う結果が出るのでは?」
 ・「今年と来年では、どう? 福島県人と栃木県人では、どう?」
  →新たなデータから疑念が湧くと、わからなくなる
   結果が通用する範囲の変質、実験や調査結果の意味の変質

※迷解説
 これは、「パーソナルカラー質問録」に書いたので、省略。
 疑う理由がないことが、わかったと思うことの一つの状況を表しているのではないかということです。

■「わかる!」の段階

 ・個別的知識:山形県は果物の産地である
 ・接続用知識:山形県は内陸部が多い
 ・法則的知識:昼夜の気温の較差が大きければ、糖度の高い果物ができる
 (以上、西林克彦:間違いだらけの学習論、新曜社より)

※迷解説
 知識を3種類に整理したもの。
 「山形県は果物の産地である。」という知識は、憶えるたぐいの知識で、分かった気にはならない。「接続用知識:山形県は内陸部が多い」も同様である。しかし、「どうして山形県では美味しい果物が採れるの?」と思った時、内陸部では昼夜の気温の較差が大きいこと、較差が大きい時に糖度の高い果物ができることが知識として得られると、「わかった!」という気になる。
 だから、わかるというのは、個別の事実が法則的知識と結びつくことだということになる。

 ・理解:法則的知識と結びついたもの
 ・有意味化:隙間を埋めること(知っていることと結びつけること?)
 ・確信:バリエーションのある事例について成立すること
 (以上、西林克彦:間違いだらけの学習論、新曜社より)

※迷解説
 →わかった気がするためには、理解だけでは不十分かもしれない。私が行った街路景観の評価研究で、「オフィス街も商店街のどちらも、落ち着きと面白みの両方が大事だ。」という結果が出た時、私は分からなくなった。オフィス街は落ち着きが重要で、商店街は面白みが重要だと思っていたからだ。それが、「うん。この結果でおかしくない。」と思えるようになったのは、アポケーしたからではなく、「ヨーロッパのオールドタウンは、中心部に商店が並んだストリート、周辺部に住宅が並んだストリートがある。どちらも同じような石造りの街並みだけど、いいものはいいよな。」という実験結果の解釈を正当化できそうな事例を思いついた時だった。このような身近な事例と法則的な知識が結びつくことが有意味化だ。
 そこで、勢いを得て日本の街並みを見て、「オフィスは面白みがないことが多いし、商店街はごちゃごちゃしていて、それが魅力を減じていることが多い。うん。日本でも解釈できそうだ。」ということになれば、法則的知識に対する確信が増す。法則が成立する範囲はバリエーションを持つことで拡がるのである。

■「純粋なケースから条件発生的法則を一気に取り出す」でいいのか?
  事例を集める研究の意味は?

※迷解説
 さて、現象学がそうだし、ゲシュタルト心理学なんかもそうだし、実験心理学の結果を一般化する時もそうなのだが、ある事例で納得できたことが、すべての事例について成立するかどうかはわからない。本質直感という手段は、本当に本質を直感したのかどうか検証する必要がある。
 だから、新しい研究を思いつく時は本質直感であっても、使える知識にするには(わかった! と思えるためには)事例を集めて検討するプロセスがいる。そう考えている。まあ、研究者にとって当たり前のことですね。


曖昧な定義の問題

■■ロッシュのカテゴリー論

  (I.ロス、J.P.フリスビー:知覚と表象、認知心理学講座2、海文堂、1989)

※迷解説
 「父」は「男」で「親」である「人間」であるから、明確に定義できる。では、これらの要素が「父」の本質なのだろうか。「男の中の男」という言葉があるが、これは「いろいろ男はいるけれど、その中でもっとも男らしい男」ということだろう。そうすると、これは男の本質を表しているに違いない。そう考えて、「男の中の男」と「親の中の親」の共通部分をイメージすると、日本の場合「カミナリ親父」か「頑固親父」に行き着きそうだ。しかし、これが「父」の本質だと言われると???になってしまう。
 さて、「椅子」らしい「椅子」とか、「ゲーム」らしい「ゲーム」というのを考えたときの典型例を「プロトタイプ」と呼ぶ。すべての椅子に共通する特徴とか、すべてのゲームに共通する特徴は見つけられないが、類似した特徴を持つグループ構成員を見つけることは可能だといわれている。ゲームには、複数のプロトタイプが存在するのだろう。
 その程度であるから、言葉は曖昧なものである。

■■曖昧な言葉で現実をしっかりと捉えられるのか?
  曖昧な範囲で現実を捉えていくしかないのでは?(厳密化の方法はある)
  うそをつかないということ(誤差、平均の魔術)

※迷解説
 このような話題には認知意味論とか語用論が役立ちそうである。しかし、これから勉強しようという事柄なので、現在の段階での考えを書くしかない。
 意味の伝達は、経験に基づいた意味の共有に基づくと考える。経験には2種類あると思う。ひとつは、意思の疎通である。「この赤い花、きれいだね。」と言われた時、それが赤いと思えれば、意味を理解しているという確信が増し、そのような体験が続けば固定される。もうひとつは、意味の発見である。向日葵は黄色い大輪の花が咲き、太陽の方を向いていて、ヨーロッパでは油を取るために栽培されているという知識があるとする。TGVに乗ってフランス中部を旅した時に向日葵畑を見れば、それまで向日葵を見たことがなかったとしても、向日葵だと理解される。これも、言葉の世界や写真の世界というアーティファクツ(人工物)を通して培われた共有感が確認される瞬間であろう。
 さて、このように意味の共有が基盤となって言葉の世界が形作られるのだとすると、印象を表す言葉に関しては不可解なことが起きる。どうして、私には落ち着きがないと感じられる街並みを落ち着きがあると感じた人がいると考えられるのだろうか。同じ対象物に別の言葉を割り当てるのだから、言葉の意味に不安を持ってもおかしくない。
 根本は印象を共有した経験があるということだろう。お父さんがくだらないというアニメだけれど、学校の友達とは共有できる。そういう印象を共有できるグループの存在が意味のベースになっているのではないか。そして、それは「いろんな人がいる」という経験に裏打ちされて、「違っていても不思議はないのだが、同じ人もいる。」というように思えれば、固定されるのだろう。
 とは言え、解釈可能性が無限にあるのでは、このような解釈は成り立たない気がする。印象を共有できる可能性が減るから、「同じ」よりも「違う」の方が心を支配してしまうだろうからである。
 実は、私が行った街路景観の評価研究では、好ましさ評定のばらつきが大きかったシーンには2つの代表的な解釈が存在を示唆する結果が得られている(詳しくは、街路景観評価の個人差という論文を読んでください)。2つくらいなら、他の人のことも理解できるでしょう。
 ということで、曖昧と言っても、全体に墨が掛かったようなぼやーっとしたものではなく、ぼやけた班で意味の中心を捉えられるような限定された可能性の中での曖昧さだと考えるのだった。

「たとえば、「移りゆく世間を眺める」という出来事のパタンに不可欠なのは、ポーチのレベルよりやや高いこと、十分に奥行きがあり、グループで快適に座れることなどである。もちろん、屋根を柱で支持し、前面は開放的にせねばならない。
...これと対照的に、ポーチの間口、高さ、色彩、使用材料、袖壁の高さ、ポーチと屋内のつながり方などは、さほど重要ではない
 −したがって、それらをいくら変化させても、、ポーチの根本的かつ本質的特性には抵触しないのである。」
(アレグザンダー:時を超えた建設の道より)

※迷解説
 行為と関係する環境の本質というのは、ここに示されているように、行為を現出させる環境の特徴のことだろう。しかし、最後の文では、ポーチというのは行為を現出させなければポーチではないという本質論にすり替わっている。つまり、人々がポーチと認識するものの一部にしか本質を宿したポーチはないと言っているのである。
 われわれがポーチの研究をする時には、たくさんのポーチに人を連れて行き、どの属性が満たされていると移りゆく世間を眺めるのかを観察するだろう。このとき、一般にはポーチのカテゴリーは共有されているものとして暗黙に設定されている。この共有の一般性が高いであろうことは、「それポーチじゃないんじゃない。」という言明が少ないことからわかる。(ゼロではないけれど。)
 「ポーチをポーチたらしめる」性質を備えたポーチも共有されているのだろうか。現象学でもアフォーダンスでもそれは共有されていると捉えている、と思う。本質の解釈が人によって異なるのでは困りますから。で、「いっさいの問題は、結局は本質を定義することに帰着する(現象学)」などと言ったりする。
 そうなのかなあ。

■■言葉の多様性をどう捉えるか?

  −言葉の本質はあるか? デノテーション、コノテーション
   →言葉の意味を状況などで限定する必要があるか?
    個々人に任せて、開放していくべきか?
 「この人は、赤を赤と感じている」かどうか検証することはできない。
  区別できることはわかる。→定義できない?

※迷解説
 経験が違えば、言葉の意味も異なる。昔広島出身の後輩と話をしていたら、「団地」の話がかみ合わない。意を決して尋ねてみると、彼の言う団地は大規模に開発された新興住宅地のことだった。工業団地などはそういうイメージがあるから、団地という言葉に「まとまって開発された」という意味合いがあるのだろう。これでは、豆腐のような建物を思い浮かべていた私と話が通じるはずがない。
 昔、色盲の話をしていて、我々が見ている色が皆同じに見えているかどうかを確認する方法はあるかと聞いた先生がいた。で、「ないんじゃないですか。」と答え、「そうだよなあ。」となったのだった。赤と青が区別がつくかつかないかはわかる。でも、それは同じに見えていることを保証はしない。「違いがわかる男」が「本質を理解する男」と同義かどうかはわからないのである。だから、我々は推測するしかない。
 推測する手掛かりは、人間に共有された性質だ。子供が「魚の骨」と「西瓜の種」を共に「種」と呼んだのを聞いて感動した教育心理学者の話を思い出す。言葉の意味は発見していくものだのだということがわかるエピソードである。それと共に、新しい言葉でも、意味は理解できるように作られていることがわかる。その子供は、「種:我々にとって必要な部分以外の部分を表す。」という文を彼の辞書に書き加えたと他人である私にも理解できるのだ。「言葉は、意味あるように作られる」というのが、人間が言葉を発見する時の共有された性質だと思う。
 SD法は、意味を固定的に捉えているからよくないという批判がある。しかも、単に批判するだけでなく、自由に記述させ、それを因子分析することにより意味の次元と言葉の意味を解釈するという手段まで開発した人もいる。(小島さん)
 では、普通のSD法にどんな意味を持たせられるのか。
 SD法を頻繁に使っている私は答える必要があると思うが、時間がかかりそうなので、また時期を見て書こうと思う。


人間ー環境系の記述

■■S−O−Rのセット

 ・意味単位のセット(パタン、シェマ)の抽出
  どういうときに意味を持つのか? →そんなことは知っている???
 ・ゲシュタルト(典型的な事例から、全体性)
   単純な事例からは見えない複雑さ(単色→配色、個人差大→小)
 ・関わりのある項目が、環境の特徴によって変化する
    →カードピックアップ
 ・意味単位の組合せで表せるか?
   表せる場合もあるし、表せない場合もある
   →有効範囲の明確化

※迷解説
 私が勝手に心理学のジレンマと呼んでいることがある。それは「皆が気がつかないことでないと意義を認めてもらえないが、まったく気がつかないようなことは認めてもらえない」というものである。ギブソンが「平らで硬い面が体を支えることをアフォードする。」と言ったところで、「そんなこと知っているよ。」と返されるのがオチだろう。では、どういう刺激−反応のセットを提出したら意味があるのか。私がすぐに思いつくのは、規範理論との乖離を指摘するやり方と、経験の重視による思い込みの訂正だ。前者はベイズ統計学が有名だから、その手の本を読んでもらうことにして、後者はどこかに書いた「オフィスは落ち着きが重要だけど...」みたいなやつである。パタン・ランゲージでも、「ごく当たり前」ではない観察が役に立つ気がする。

 ゲシュタルト心理学者たちは、特徴的な事例から一般化すると言われている。こういうやり方は、環境心理ではうまくないと思う。例えば、配色の研究で「色の効果を平均する」と配色の評価が表現できた事例と「色と色の関連性」で表現した方がうまくいく事例があった。片方の実験から、結果を敷衍するのはまずいことになる。私は嘘つきにはなりたくない。

 さて、カードピックアップ・モデルというのは、私が提唱している評価モデルだが、評価項目は環境の特徴に依存して決まるのであって、環境のカテゴリー(住宅だとか商店街とか居間とか)に依存して決まるのではないという特徴を持っている。これは、基本的には環境を要素の特徴とそれに対応する反応に分解していることになる。  (S1-R1),(S2-R2)...というように(S−R)のセットで表される。
 街路景観の評価はこれでうまくいったのだが、それが他でも適用できるのか、評価の全体性(幾つかのカードがつられて同時に出てくるという現象)をどう説明するかといったあたりはまだ結論が出ていない。それなら、適用できる範囲をどう考えるのかということが「有効範囲の明確化」として記してある。
 これから論文書きます。

■■意味のある指標

 ・xがあれば、xnはいくらでも作れる→指標は意味がないと意味がない
 ・「意味の物理的指標化」の意味→人々に構造の認識がない場合有効
 ・「生理的指標」の意味→言葉で表すのか?

※迷解説
 変数は無限に作ることができる。xという一つの変数があるだけで、その累乗は無限にあるのだから簡単だ。ということは、環境を表す変数も無限に作ることができる。それが意味あるかどうかは、何らかの意味を表現できているかどうかにかかっている。フィリップ・シールが連続的な環境体験を記述する「五線譜」を提案している。私は詳しくはないのだが、それにほとんど意味がない可能性もあると見ている。それがあると、これこれが表せるという対応の記述を見たことがないからだ(もちろん、単に勉強不足の可能性もある)。言いたいのは、意味のない変数を提案する研究は基本的に御法度だということだ。許されるのは、他の事例でうまくいったのに、これはだめだったというパターンだけだろう。これだと、なぜうまくいったのか、なぜだめだったのかを考える縁になる。ムダな変数化の試みとはそこが違う。
 意味がわかることをわざわざ物理的に表さずともよい。ではどういうときに物理的に表す意味があるのか。それは、厳密性が求められる時(要素の影響の大小を比較したい時とか)、要素が明確に意識されていない時だろう。要素がたくさんあって聞かれても答えられない時にもあるといいけど、それは物理的に表現するのも難しそうだ。
 生理的指標も意味が欲しい。α波はリラックスの度合いを表しているというような対応関係があると使える。ではリラックスしているかどうかは、どうやって判断するのだろう。単純にいえば、「リラックスしています。」と言ってもらう以外ないのではないか。筋肉の緊張の度合いを測ったり、唾液の出具合を測ったりしても、それをリラックスに変換できるのは、「確かにそういう状態の時はリラックスしていますね。」と言ってもらえた時だけだろう。
 じゃあ、言葉で尋ねればいいじゃないか。そう。その通り。で、私は生理指標のことはよくわからないのもあって、そっちには手を出していない。手を出すとすれば...脳内物質量でも測定できるようになって、「快感物質」みたいな感情とリンクした指標が見つかった時かな。
 もうひとつ、生理指標が活躍する可能性があるのは、生理指標だけの関連性で意味が見いだせるようになった時だと思う。無理に心理と結びつけずに済めば、体系を作れるだろう。

■■環境の特徴と意識の関係の記述
 ・S−Rとして表れない意識内行動
 ・意識に対する行動のバリエーション

※迷解説
 「考えることは、たくさんあって、することは少ない、というようになっていないといけない。碁打ちにたとえるならば、だんだん碁が上手になってくれば、いろんな手、いろいろな可能性を先の方までずうっと読んで、そのうちから、どれかを選択する。考えていることが実際に打つという行為に比べて、だんだん多くなる。」
(湯川秀樹の随筆より)
 行動としては表れないけど、影響は与えているというのがあると思う。
 反対に同じ事柄に別の行動で対処するとか、同じ行動だけど別の意味合いが隠されているとか、そういうことを捉えることは重要だと思う。
 頭の中をどうやって取り出すか。それが問題だ。

■■人間モデルは、実験モデル

 S−R:刺激と反応しか取らない
 S−O−R:刺激と反応以外に、人について取る
 S−I(O)−R:刺激と情報と反応について取る
 S−R(O):刺激と評価
  Sには状況も含まれている
 人はすべて違うのだから、仮定しているにすぎない

※迷解説
 環境心理調査手法の本を作っている時に、実験はどの人間モデルを採用するかによって変わってくるという話が出た。そのとき、S−Rは個人差を仮定していなくて、S−O−Rは個人差を仮定しているという話が出たのだが、私はこれは誤解だと思うので、そのことについて書いておく。(みなさんの中にも、そう考える人がいるのではないかと思うので。)
 S−Rであろうと個人差は仮定されている。仮定されていなければ、一人の被験者の実験データだけで事足りるはずであるが、統計に乗るくらいの数を集めるのだから。S−RとS−O−Rとの違いは、個人差を人の属性で表す気があるかないかの違いである。「こういう刺激(Stimuli)に対してこういう反応(Response)が返ってきました。それは、人(Organism)のこういった属性と関連しているのですよ。」と言いたい時に初めて人について何か測るのである。年齢でも、性別でも、性格でも教育背景でも、関係ありそうなものについて。
 人間モデルは、実験モデルと書いた所以である。
 そして、個人差があればそれを記述し、なければ記述しなければいいというのが私のスタンスである。

※刺激は複数あるのが環境の特徴と考え、Stimulusではなく複数形のStimuliを用いて記述してみた


刺激と評価と反応の循環

■■インタラクティブな関係、連鎖としての反応

 「ハイデガーは、現存在が、気がついたときにはいつもすでに世界のうちに投げ出されてあるという「被投性」に受動的契機を、そして、にもかかわらずその世界内存在をおのれの存在として投げ企てうるという「企投」に能動的契機を認め、内存在とはこれら両契機が同様の根元性をもってからみあう「被投的企投」にほかならないと考えるのである。」(現象学より)
 →評価実験、刺激−反応実験と現実世界の違いがどこにあるのかを意識すべき
  「カレーライスが好き」でも、毎日カレーライスはいやかも知れない
  実験に、PDCAサイクルを導入すべき(必要なら)
  「対象」→「図式」→「探索」→ (ナイサー)

※迷解説
 「時間とは、われわれがずっと行うところのもの−われわれが次々におこす行為なのである。時間はわれわれの仕事を限定する故に資源なのである。(R.ソマー:デザインの認識より)」という認識がある。我々は、空間の中で情報を得て、考え、行動しているように、時間の中で情報を得て、考え、行動している。
 私は印象評価実験をよくやるが、それへの批判の一つに、時間を固定しているのではないかというのがある。人間が環境に働きかけて情報を得るのと、受動的にスライドを見ているのでは違うだろうとか、今日の評価が明日も同じかどうかはわからないとか、評価と行動がどう結びつくのかわからないとか、そういう声に耳を貸す必要がある。
 私自身は、そういう要素を徐々に取り入れて実験し、取り入れなかった時との違いを明らかにしていくという方策を採ろうとしている。まったく別物だと言われると困るのだけれど...

■■時間を含んだ環境の記述

《環境》
 ・動画からしかわからないことがあるか
 ・人のいる−いない、朝・昼・夕
《人》
 ・自由に動く、生活する
 ・合議する
 ・変化させる
《反応》
 ・飽き、慣れ、鈍化
 ・痕跡

※迷解説
 これらのことを考えていきましょう。変数として取り入れていきましょう。
 「飽き、慣れ、鈍化」に関わりそうな実験を1つやったことがあるだけなので、今はその程度のことしか言えません。

論理性と帰納

■■評価は、物理学から導き出せない

※迷解説
 これは、中谷宇吉郎が書いていた「美は物理学から導き出せない」みたいな文章にヒントを得て書いたのだと思う。2年前なので、うろ覚えです。
 ここでの「評価」は印象みたいなものをイメージしています。
 耐久性評価なら、物理的に表現可能でしょう。なぜかというと、要素を比較的少数の要素に分割可能だからです。柱の太さと材質で柱の耐久性が表せ...云々。温度感覚などもある程度表せる。温度、湿度、気流、輻射の温熱4要素があるから。あとは、人の個人差をどの程度盛り込めるかです。
 「美」だって表現できなくはないと思うのですが、要素が多すぎるのと、うまく切り分ける方法が見つからないから表現できないのだと思います。「切り分ける」というのは、こんなことです。
 美人という時、顔立ちが効いているのか、目がぱっちりが効いているのか、色白が効いているのか、体型が効いているのか、仕草が効いているのか、全体のバランスが効いているのか、そういう要素が無数にある。しかも、ある時は目鼻立ちがキーポイントだが、別の時は色白がキーポイントかもしれない。人々が着目する要素(この要素には、要素と要素の関連性なども含まれる)に分解することを切り分けると表現した。
 こう書いてみると、切り分け方だけでなく、それをどう判断するのかにもいろいろありそうで、やっぱり複雑だ。顔の善し悪し判断なんて、つきあった女の子の特徴で変わることもあるし、「美」を表すのが難しいのは、その不安定性も関わっているかも。

■■アレグザンダー

  「真剣に良いものを見つめれば、本質的なパタンを見つけだすことができる。
  それは、同じ文化背景を持った人には共有されている。」というようなこと。
 →意味を見つけだす作業は、本質直感か?
  範囲を設定して、測定を行うようなやり方でもいいのではないか?

※迷解説
 このあたりも怪しげな書き方ですね。うまく整理できていなかったのでしょう。
 「範囲を設定して測定を行う」というのは、ある範囲の対象物で評価なり意味抽出を行ってみるというやり方でもいいのじゃないかということです。ただ、「ある対象物」という範囲がくせ者で...

■■範囲の設定(解釈の普遍性)

 ・意味の塊の抽出
   解析対象をどう分類するかによって、結果が変化する
   →分類の難しさが認識されているか? (異なる分類:異なる結果)
   データから分類を見つけだすことは可能か?

※迷解説
 2つの変数についてデータを取った時、関連が見られなかった。そういう場合でも、その中から関連が見いだせるようなサブグループを見いだすことは確実に可能である。しかし、我々はそれを恣意的として排除しようとする。では、どういう場合に恣意的でないと感じられるかというと、因果関係が明示的・暗示的に理解された時である。
 「Heads I win, tails you lose」という警句があるそうだ。対象のサンプリングによっては、「俺が勝つか、おまえが負けるかだ。」的な解釈をしてしまう可能性があること、だから、対象の分類は決定的に重要だということを強調しておきたい。

 とはいえ、対象をどう分類すべきかはやってみないとわからないところがある。分類してみたら、何かの関連性が出てきて、それに意味があると考えていいかどうか悩む、そういうことの繰り返しだ。

 ・特殊事例を考える
  特殊事例と考えるか、モデルに組み込むか?
  →わかったことをすべて組み込むモデルの悩み

※迷解説
 私は色彩調和論を作りたいと考えているのだが、精度の高い調和論を作ろうとすると、さまざまなケース分けが必要そうだということがわかってきた。たとえば、同トーンで揃えた配色の場合、色相の違いは調和の評定を落とす人たちとそれは気にしない人たちの2つのグループがありそうだという結果が出ている。そういう結果を説明するためには、「if〜,then〜」を多数取り入れないといけなさそうだ。
 煩雑だけど精度が高いモデルづくりを目指すか、モデルは簡素化しておいて、注釈をたくさんつけるか、そこで悩むということである。

■■常識の論理(データ収集&解析)

 ・客観性と思いこみ
   仮説検証実験は危ない
 ・範囲の自覚
 ・自分の感覚によるチェック
 ・仮想批判者によるチェック
 ・判断はデータが変化しても変わる。判断の構造が変化しても変わる。

※迷解説
 仮説探索型の研究と仮説検証型の研究があると言う人がいる。しかし、私にはこの意味が飲み込めなかった。実験データからこういうことが言えるということを言っているだけなので、仮説はデータから導き出し、仮説はデータで検証するのであって、それらは同一の実験(研究)でも構わないはずだからだ(統計的有意というのは、仮説を持っているかいないかで変化する値ではない)。で、私は自分の研究スタイル「結果はどうなるかわからないけど、知りたいことに関してAかBか、はたまた私の知らないCかの、どれになるかわかる研究計画」のことを仮説検討型研究と呼んでいる。
 仮説検証型の研究というのは、仮説が正しい場合はいいが、間違っていても強引に当初の解釈を貫いてしまいがちなので、私は好きではない。検討が甘くなるとか、適用範囲を恣意的に設定するとか。検討する方がいい。
 さて、データ解析で問題になるのが打ち込みミスとか解析ソフトの設定ミスである。そういうのに気がつく度合いは、学生より私の方が圧倒的に高い。それは、「この結果おかしいよね。データをチェックしてみようか。解析のやり方をチェックしてみようか。」となるからで、あくまでも「おかしい。」という思い込みが先なのだ。
 これを私は常識力と呼ぶ。
 人間相手のデータなのだから、おかしい結果が出た時はおかしいことが多いのだ。おかしくなりそうな要因を虱潰しに調べても何も出てこなかった時、やっと、それを解釈するフェーズに入る。
 もうひとつ、常識力が問われるケースがある。それはデータの解釈の時だ。なぜこのような結果が出たのか、この変数とこの変数に関連があったのはなぜか、そういうことを考える時は、対象物とか人間とか、大きく言えば世界とか、そういうものに対する知識、しなびた言葉で言えば教養が関わってくる。解釈者の頭の中にどんなデータが入っているかで、解釈が変わる可能性があるのだ。これを「判断の構造が変化しても変わる。」と書いている。

■■データを見つめて考える

 ・構造面からのアプローチ:モデル化
 ・機能面からのアプローチ:入出力の意味

※迷解説
 「この街並みはどうしていいと評価したのですか?」
  →「落ち着きが感じられたからだ。」
 「どうして落ち着きが感じられたのでしょう?」
  →「れんが色の建物に石畳。当然だろう!?」
 このような理由のつながりみたいなものを評価構造と言っている。心の中には落ち着き判断ユニットや建物の色判断ユニットや路の素材判断ユニットがあるという仮定しているのだろう。そのユニット間の関連を数値化できれば、評価モデルは完成である。
 しかし、心の中にこのようなユニット(判断細胞?)があるかどうかはわからない。脳内の活性化状態みたいなものがこれらのユニットに対応するという可能性もなくはない。ニューラルネットワークなどはそれで、中間層のユニットに意味は持たせていないのだ。こういうときは、入力と出力の関係が再現できれば、モデル完成である。
 評価構造アプローチに未来はあるのか!?
  −私はあると思っていますけど。

 ・理論的枠組み
  →部分的修正か、メタ理論の再構築か、継ぎ接ぎか?

※迷解説
 これは先述した色彩調和論のモデルづくりで説明したあたりとかぶるので省きます。
 メタ理論の再構築になった時(評価構造を表現しようとしているのに、評価構造ではまずいという結果が出てきたような時)は大変です。でも、いつでもそういう可能性を心の隅に残しておきたい。
 実は、そういうパラダイムが壊れる時が一番楽しい時です。だって、自分がまったく知らなかったことと対峙するのだからね。

 論理性と帰納というタイトルであれば、データを取って語らせることと、論理的に考えるところ(どういう手法でデータを集めると妥当性が高いかなどは論理的に考えるしかないと思っています。)が書きたいことなのですが、直接言及できませんでした。またの機会に。


仏教と現象学

 ゼミ合宿(とは言っても懇親目的のもの)で伊豆に行った時、美術館に出品されていた絵の脇に書いてあった言葉。メモが不完全なのだが...
内山つとむ(画家)
仏教の7つの段階?
 念  物事を単純化して考える
 択法 それらの方法を分析してみる
 精進 
 喜  
 軽安 鳥が空を飛ぶごとく身軽になる
 定  
 捨  先入観、固定概念、既成概念を捨てる

...自然界に起こっているいろいろな現象を、今までいったように、それは原因じゃない、その次に伝わるのが原因だというふうに考えること、それ自身が、思考形式としての因果律である。(確か、中谷宇吉郎:科学の方法、岩波新書、1958)


実践という単位

 最後に、固定的な捉え方ができないということを如実に教えてくれる文章を紹介してみる。現象学的な捉え方というのは、ここで紹介するような問題意識とマッチするように思う。そして、それこそが現実の環境と人間の関わりの特徴でもあるはずだ。

 日常とはまさに日々人々が行なっていることであり、ルーティンのようにして行なっていることはすべて日常としての特徴をもたざるを得ない。それは、員い物であろうと、教室であろうと、科学者の研究調査活動であろうと、同じことだ。それは「当たり前」のように感じられるという、まさにそのことなのであり、その限りでどの活動も同じことである。そしてまた、特定の状況において生じているということも共通であり、つまり、特定の社会状況における社会的実践なのである。その実践以外に文化を考え、個人の内面を考えても無意味だ。それらを実践以外を通して見ることなどできないからである。社会的活動のなかで行なっている行為における人間全体が間題なのである。そこでの心身的、場面的な関わりが実践であり、その行為の分析から析出されてくることだけが意味がある。
 このことは、実践する人の見方のみに固執する現象学的な立論に戻ることを意味しない。現象学的な見方を核にしながら、社会体制全体の間題を実践の分析に組み入れる必要がある。実践自体にその体制が事実として現われてくるからである。実践での行為者の行為はいかなる場面にいるかにより影響されるが、その行為はまた場面の性格を変えていく。場面と行為の関係において社会体制の特性が参照され、変更される。行為と場面、体制の関係は、各々を独立して捉えてから、相互作用を見ることによってではなく、実践にあって、同時に絶えず、三者が関係している様子を見ることによってしか分析できない。
 具体例をあげよう。算数の計算の活動がいかに使われるかである。スーパーでの買い物で、わざわざ筆算や電卓を使っての計算をするかといえぼ、そんなことはしない。また、それに相当する暗算を行なうわけでもない。そもそも問題自体が、「千円をもっていて1パック190円の牛乳を5パック買うと、おつりはいくらでしょう」とか、値段が違い、分量が違うものを単位当たりに直して得な方を買うなどという典型的な算数の応用間題をなしていない。何を買うかは、今日のおかずが何か、冷蔵庫にどれだけ置けるか、とりあえず買い物に使えるお金がいくらあるか、などにより決まってくることだ。お買い得を決めるにしても単位当たりにするより、以前の経験や、増量分がいくら余分に払うことになるかや、同じ分量に置き直しての比較や、さまざまな方略を用いる。要するに、これらの数多くある「構造化の源」のその場面での配分や、特定の環境での移り変わりによって決まってくるのである。純粋な算数の課題などどこにもない。いつも行なう決まりきったやり方もあるが、同時に、その場で、変わった状況に応じて(例、安売りがある)、新たに選ぶやり方もある。その意味で構成的で弁証法的なのである。単一の数学があるわけでもないし、数学が他の実践と独立なのでもない。数学が他の活動に組み込まれているのも固定的な関係ではなく、その関係自体が変容し、発展する。したがって多様なものなのである。

「ジーンレイヴ:日常生活の認知行動、新曜社、1995」の解説(武藤隆)より


雑感

 もともと、現象学が建築や環境心理に及ぼした影響を探る旅として企画されたサブ・ワーキングだったので、現象学自体に迫る勢いは鈍かったのかもしれない。さらに、こうして「迷解説」を加えてみると、現象学ではなく、それに絡めて私が普段考えていることを書き殴っただけの感も拭えない。

 何かのお役に立ったでしょうか。この文章書き加えるのに丸2日かかったので、考えるきっかけになるセンテンスが一つでもあれば、報われるのですが。

ちょっと疲労気味のちくりん

  なんとか、発表の2年後に間に合った。(2002.7.25公開)


 カバー
発表要旨
本に現れた問題意識
「人間−環境系」研究への橋渡し
わかるということ
曖昧な定義の問題
人間ー環境系の記述
刺激と評価と反応の循環
論理性と帰納
仏教と現象学
おまけ
おわり


槙の書いた文章

専門雑誌などに書いた文章を集めています。

色彩

環境心理

アフォーダンス
(建築雑誌1994.11)
わかりやすいガイドライン
(建築雑誌2001.06)
環境評価構造の個人差
(建築雑誌2003.08)
文化的側面を環境心理研究に、どう取り入れるか?
(文化と環境心理SWG報告書2005.03)

感性・印象

印象評価解析における因子分析の使用法
(「印象の工学とは何か」より)

その他

現象学から考える
(人間−環境系理論検討SWG報告書2001.03)