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第20回 学祖・下田歌子展 生誕から宮中奉仕、結婚、女子教育の道へ

※会期の途中ではございますが、当展覧会は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、終了とさせていただきました。

 学園創立者である下田歌子は、安政元年(1854)8月8日、美濃国岩村(現在の岐阜県恵那市岩村)に、岩村藩士・平尾鍒蔵(じゅうぞう)と妻・房(ふさ)の長女として生まれ、幼名を鉐(せき)といいました。

 平尾鍬蔵(しゅうぞう)(他山)は、歌子の曽祖父にあたります。家族は、両親および、鍬蔵の三女・貞(さだ)と後に生まれた弟・鍗蔵(ていぞう)の5人家族でした。父・鍒蔵は尊皇家であり、また謹厳実直で一途な性格のため、藩内の内紛に巻き込まれ、安政5年(1858)遠慮謹慎を命じられました。それは、歌子5歳の時でした。幽閉の父と乏しい収入をやりくりする母、そして不遇の平尾家にあって毅然と生きた祖母・貞の厳しい薫陶を受けて、歌子は成長しました。歌子は、幼い頃より神童のほまれが高く、和歌、漢詩の才能にも恵まれていました。

 元治元年(1864)に謹慎が解かれた鍒蔵は、幕末維新の動乱期にあって、藩のため、朝廷帰順に奔走します。しかし慶応4年(1868)5月、理由不明のまま、再び隠居謹慎を命じられます。その時、歌子は多感な15歳の少女になっていました。その平尾家に大きな転機が訪れます。父・鍒蔵が、明治3年(1870)に明治政府より神祇官の宣教使史生として召し出され、東京に出府したのです。翌年、歌子は父を追って単身上京し、故あって離別した祖父・東條琴台にも教えを受けることとなります。また、和歌を、加藤千浪、八田知紀に学び、後には八田知紀の高弟・高崎正風の教えを受けます。これらのことが、やがて歌子の宮中への道を開かせることになります。

 今回は、下田歌子の生誕から宮中奉仕、下田猛雄との結婚、桃夭学校設立までを、歌子の人格形成に欠くことのできない家族、特に幕末維新という時代に翻弄される父・鍒蔵、祖父・東條琴台、夫・下田猛雄と、女子教育の道を歩むきっかけとなった桃夭学校関係の資料を展示します。


会期:2021年4月5日(月)~5月28日(金)
   ※臨時休館のため、4月23日(金)で終了
開館時間:10:30~16:00
休館日:土・日曜日、5月4日(火・祝)
入館料:無料
会場:実践女子大学香雪記念資料館 企画展示室1・2
主催:実践女子大学香雪記念資料館
後援:渋谷区教育委員会

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