社会の高齢化とジェロントロジー教育

社会的側面

インドのジェロントロジー国際総合会議にて

インドのジェロントロジー国際総合会議にて

 次に今日的社会状況を時代の流れの中で考えてみることにしましょう。
 われわれの社会において、20世紀後半は、「モノの世界」の時代すなわち、生産中心の高度経済成長の中で物質中心主義の時代であったといえます。その社会においては、自然支配を目指す道具的合理性が意味を持っていました。道具的合理性とは、意味や価値やその文脈を無視し、目的そのものを問うこともなく、目的の技術的. 道具的達成のみを基準として、行為の妥当性を判断することでした。道具的合理性は、合理的利己主義に基づき判断する成果志向の理性であり、自然支配を目指す科学技術により、自然を支配し自然環境を破壊し、人間を疎外し物象化したといえます。
 しかし、我々人間は心を持った存在、すなわち意味・内的世界をもった存在です。われわれ人間の意味・内的世界の追求(新しい合理性の追求)は、他者との関係において形成されるものであり、それはコミュニケーションの合理性と関わるものであるといえます。
 コミュニケーションの合理性とは、真実性(それが事実として正しいか)、規範的正当性(一定の規範に基づいて行われているのか)、誠実性(誠実に行われているか)という三つの妥当性基準を基に、生活世界においてコミュニケーションを行う者の相互理解を求める理性であるといえます。ここでいう生活世界とは、人々が意志疎通を図るうえでの共通の解釈を提供する背景知の貯蔵庫であり、同時に社会化や文化的再生産、社会統合が行われる行為システムととらえることが出来ます。
 近代は、道具的合理性に基づくシステムを生み出しただけではなく、行為システムが機能分化する過程でもあったといます。このシステムは、社会サービスにも影響を与え、合理的判断に基づく成果主義が常に問われ、人間の心を無視した社会サービスの機能分化を進展させたともいえます。
 日本社会においては、バブル崩壊後の経済の後退と少子高齢化の中、人々の共同・共働による公共圏の持つ意味を増大させました。その公共圏にとって重要なのは、活力のある自律的な市民社会(NGOや、宗教団体、労働団体など国家と市場から独立した自発的な結社からなるもの)の存在です。市民社会の諸組織においては、コミュニケーションが核となり公共圏が活性化すます。公共圏の活性化には「柔らかい合理性」(対応の柔軟性)と「ローカルな合理性」(地域や集団統制への柔軟生)とが意味を持つことになります。
 コミュニケーションが核となり、「柔らかい合理性」と「ローカルな合理性」が創出されます。そしてそれらは、個人の意味・内的世界の追求と関わるもので、この個人の意味・内的世界の追求は、人々に心の豊かさをあたえることになります。それは、モノが溢れる社会の中で、人々にモノの豊かさによっては実感出来なくなっている心の「豊かさ」を与えることになります。
 今日の社会において、われわれは、自己の一生を想定しながら、いかに豊かに自分の人生を創造していくのかが問われています。その中で加齢によって、自己の心身がいかに変化し発達していくのかといった視点での自己の心身を理解することは、自己の人生を豊かに創造することに通じると同時に、他者を理解し(特に若い人々にとっては高齢者理解につながる)、他者との関係形成のための基礎を培うことになります。
 その意味でジェロントロジー教育は、ジェロントロジーに関する知識や技術のみならず、個人の尊厳と人間性の尊重に基づく「コミュケーションの合理性」や「やわらかな合理性」「ローカルな合理性」を醸成する教育を意味し、活力のある自律的な市民社会形成の基礎となるといえます。

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