文化的側面を環境心理研究に、どう取り入れるか?

文化的側面を環境心理研究に、どう取り入れるか?  

文化と環境心理サブ・ワーキング・グループ資料より

 

なぜ文化か?

 槙は、「良い建築環境とは何か?」ということに興味があり、それで環境心理学の門を敲いた。博士課程在席時に行った街路景観の評価構造研究は、評価に個人差があるケースの存在を示している。街並みは半公共財であるという考え方は、日本においても市民権を得つつあるようだが、個人差がある場合には、それをどう処理するかという問題が出てくる。
 博士論文では、総合評価「好ましさ」を「落ち着き・まとまり」と「明るさ・面白み」の2軸に分離することができ、この構造は比較的均質であるのに対し、どの景観で落ち着きを感じるのか、面白みを感じるのかというところには個人差が存在するという結果が得られている。したがって、評価の構造にはある程度の共通性を仮定してもいいが、景観の特徴と印象の関連には個人差が存在すると考えられる。
 この個人差は、意味と大きく関わっていると考える。A. Rapoportは「The Meaning of the Environment」の中で、意味の重要性を再三再四指摘しているが、槙の博士論文においても、総合評価の個人差が大きい景観は、解釈の二面性を持っていることを示唆する結果が得られている。つまり、2つの意味に解釈できるため、そうでない景観より個人差が大きかったと考えられるのである。
 このように、槙の視点は評価と関わっており、そこには平均的な評価だけでなく評価の個人差も説明したいという意識が根底にはあった。したがって、槙の文化に対する問題意識の主要なものの一つは、評価を説明する文化、評価の個人差を説明する文化というところにある。
 

文化と理由づけ

 「常識の世界地図」という文庫本には、文化の相違を示す様々な事例が掲載されているが、同じ行為・同じ物事が別の意味に取られるという事例のオンパレードといった印象がある。「四」は「死」と同じ発音だから、縁起が悪いという、日本や中国の一部にある迷信は、このような事例の一つである。当然の事ながら、four, quatre, vierなどの語に、このような縁起の悪さが付きまとうわけではない。
 体を清潔にする浴室と不浄な場所の代表であるトイレが一つの部屋に配される西洋型ホテルのバス・ルームは、日本人には理解しづらい例であるが、この本によると体から出る汚れを水で処理する場所という位置づけだというのが、一緒にする理由だそうだ。それに対し、日本では共同浴場が一般的であったし、汲み取りの伝統が公共事業として受け継がれたため、トイレと風呂は別々となったのだろうという。
 このように、現在文化として定着しているものの中には、普及し始めたときの事情が絡んでいるものも多い。そして、その成立事情がわかると、それまでよりは違和感が和らぐことが多い。
 このように、事情がわかれば理解可能ということも、認識構造には共通性があるが、実際の反応は異なるという事例と捉えることが可能なように思う。
 そこで、文化を捉える視点として、「人間の認識の構造には共通性があるが、要素の結びつき方が変わるため、反応は異なることがある。」というメタ理論を設定するというのはどうだろうか。(これは、臨床認知心理学者G.ケリーのパーソナル・コンストラクト理論に近い仮定である。)
 これは、評価や認知や反応が異なる事例があれば、なぜそれらが異なるのかを説明するという作業を行い、人々がある程度納得できる説明を用意するということを文化を扱う研究者の使命の第一としようということである。そのようなやり方でうまく説明できない事例がいくつか出現した際には、仮説を修正することになるが、このようなメタ仮説を明確に呈示しておくことが、新たな理論の構築を促すためにも必要だと考える。
 

文化の定義

 手元にあった2つの辞書から、文化の説明を転載しておく。

文化

(culture) 人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容とを含む。文明とほぼ同義に用いられることが多いが、西洋では人間の精神的生活にかかわるものを文化と呼び、技術的発展のニュアンスが強い文明と区別する。←→自然。
文明
宗教・道徳・学芸などの精神的所産としての狭義の文化に対し、人間の技術的・物質的所産。
[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

文化

その人間集団の構成員に共通の価値観を反映した、物心両面にわたる活動の様式(の総体)。また、それによって創(ツク)り出されたもの。〔ただし、生物的本能に基づくものは除外する。狭義では、生産活動と必ずしも直結しない形で真善美を追求したり獲得した知恵・知識を伝達したり人の心に感動を与えたりする高度の精神活動、すなわち学問・芸術・宗教・教育・出版などの領域について言う。この場合は、政治・経済・軍事・技術などの領域と対比され、そのことを強調するために「精神文化」と言うことが有る。また最も広い用法では、芋を洗って食べたり温泉に入ることを覚えたサルの群れなど、高等動物の集団が後天的に特定の生活様式を身につけるに至った場合をも含める〕
[株式会社三省堂 新明解国語辞典]

 これらの定義においては、人間が遺伝的に持っているのではなく、創り出したものという側面、集団に共有されているという側面を強調しているようである。この2つの条件は、つい最近までの文化の捉え方としては有効であったと思うが、現在の状況には必ずしもマッチしていないのではないかとも思う。そのあたりについて、次に考察していく。
 

ふすまの取っ手は、真横に引くことをアフォードするか?

 先日、学生が提出したアンケートを見ていたら、おもしろい事例が紹介されていた。外国人の学生が日本に遊びに来たとき、襖の丸い取っ手が、どうしても横に引くというイメージとつながらずに戸惑っていたというのである。
 D.ノーマンが板状のドアの取っ手は押すことをアフォードし、リング状の取っ手は引っ張ることをアフォードすると述べている。これを、身近な環境のアフォーダンス事例としてよく引用するのだが、これらは、人類全体に共通することが想定されるような基礎的な対応づけとして挙げられているものだろう。
 では、丸い取っ手はどうだろう。押すことも引くこともアフォードしない様に思える。唯一、横に引くことがアフォードされると思うのだが、いかがだろうか。我々日本人にとっては自然な対応付けと思われる襖の取っ手が、異なる文化圏に暮らす人々にとってはなじめない性質のものだということになると、「基礎的な」ものにも文化的な要素が係わっている可能性があると思える。
 

交差従兄弟婚

 反対に、複雑な事象にも多様な文化に共通する特徴が見られることはないだろうか。
 すぐに思い浮かぶのは、C.レヴィ=ストロースの交差従兄弟婚に関する知見である。結婚相手の選別という、一般には文化的と考えられる事象に、ある種の論理的共通性が存在することを示した事例として知られている。
 その他にも、青七現象(Blue-Seven Phenomena)などが思い浮かぶ。世界中で、青色と7という数字は好まれるというのである。Berlin & Kayの色彩基本語の発達段階などを思い浮かべてもよい。
 いや、そのような遺伝子が存在するのだ、という仮説も成り立つ。そう考える人もあろう。それは現在のところ、実証しようがない仮説ではあるが、可能性はある。ということは、図らずも、人間が遺伝的に持っていると考えられるような、全人類に共通するような性質を「文化的なもの」から排除するという考え方にも曖昧さがあるのだということを表していると思えてくる。青や7を好むというのは文化だと思うが、それが結構共通性があるのであれば、集団に固有なものだけを文化と呼ぶのでもないだろうし、遺伝か後天的なものかという議論を文化の定義として重要だと考えなくてもいいのではないかということである。
 このようなことから、WGの討論の場でも紹介したように、ある程度普遍的な文化(全人類に共通するような文化)と個別的な文化(ある集団に固有の文化)が存在するという考え方が導かれてくる。(ここで文化と呼んでいるのは、総体としての文化ではなく、その一部分に着目したものである。)
 個人的な考えによれば、その普遍性の程度に影響する要因は数多く、たとえば、前述したように普及し始めたときの状況が恣意的に作用することを考えただけでも、その文化圏の範囲や交流の程度、儀式などとの結びつきの有無、文化圏の存続期間、別文化圏による支配、強力な指導者の有無やその好みなど、様々なものが考えられる。
 適用範囲の大きさも、遺伝に基づいていそうだという感覚も、文化を規定する指標として決め手になるものとは言えないのではないだろうか。
 

文化の継承性と流動性

 WG委員の栗原氏より、文化と個人差を分け隔てる指標として継承性があるという紹介があった。たとえば宮廷文化は、担い手たちは変化していくけれども、儀式などの形態は保持される。その継承性が文化の特色であり、行動様式や判断様式の個人差もしくは流行などとの違いということになるのだと個人的には理解している。
 しかし、継承性は低い文化というものも存在するのではないか。たとえば、徐々に変化していく行動様式のようなものである。
 一昔前の学生という集団は、「下駄をならしてやってきて、朝まで酒を飲みながら語らった。」のかもしれないが、昨今の学生はどうだろう。ある2つの時点で眺めると、全く異なった行動様式を示すが、その間の出来事を丹念に追っていけば継承性がある範囲内で見られるというような事例は、多いのではないか。
 このように、文化を明確に規定することは難しく、そこに拘泥しては成果を残すことは難しいと感じる。もう少し、現実を捉えるに有効な定義を見いだす必要があると思う。
 

文化の流動性

 先年亡くなったEdward W. Saidという文学者がいる。イラク戦争勃発直前の彼の講演をテレビで視聴する機会があったが、彼は、「国家の壁というものがあり、パスポート・コントロールなどの手段を使って国は人を管理しようとする。しかし、人はその壁を越えて移動するし、壁の中であっても多様である。」ということを述べていた。彼の話は、「そういう時代においては、国家の利害を超えた人権という普遍的な価値に基づいて判断がなされるべきだ。」というような方向に進むのだが、ここでは、国家といった壁が低くなりつつあり、アイデンティティの基準がそのような地域性を持ったものから、個人へと移行しつつあるということに着目したい。
 これからの世の中は、多様な人物が混じり合う社会となるであろう。
 これまで、文化は地域と密着した概念であった。しかし、時間的にも変化しているし、混じり合っている。文化研究は、固定的なものにはなり得ないことが明らかになっている。
 これらのことから、文化を流動的に扱う視点の必要性が生まれていることがわかる。
 

文化の再定義

 「我々が文化を感じるのは、ある特定可能な集団に特定される現象面の共通性が見られる時である。また、その意味が共有されていると感じるときにも、文化を感じる。そういうものが文化である。」
 これは抽象的な記述なので、例を挙げてみる。
 おたくの文化などは、インターネットを介してやりとりされることもあるだろうが、その作法は(完全にではないけれども)閉じたグループで共有されているものである。これまでは、そのような集団が地域的なまとまりを持っていたのだが、そういう傾向が薄まってきたと考えられる。
 現象面というのは、物で語られるときもあるし、言動で語られることもあるし、行動で語られることもあるし、何らかのテストで語られることもあるだろう。部屋にあるセル画でもいいし、「エヴァンゲリオンが...」でもいいし、紙バッグを提げているでもいいし、アニメおたく度クイズでもいい。そういうものが、ある特定の集団に存在するときに文化を感じると思うのである。共通性があっても遺伝的な影響が強いと解釈される場合には文化を感じないということもあろうから、これだけでは十分な定義ではないかもしれないが、「特定可能」と「共通性」がキーワードである。
 「意味が共有されている...」というのは、行動面に違いがあっても、根底に流れているものに共通性を見いだせれば、文化を感じることがあるということである。
 このような定義に従えば、集団を特定し、その集団の個性をいくつかの側面から記述することが文化研究ということになる。
 

集団の特定

 少し、研究というフェーズに立ち入ってみる。
 集団としてこれまで用いられることが多かったのは、人種、年齢、性別、職業、教育背景といったdemographic属性であった。心理学では、こういう区分けに違いがあるかないかを検定という手段で客観的に?表現するというのが、伝統的である。しかし、近年はこのような手法に対する反省が聞かれる。もう5年以上前になると思うが、「塩分を大量に摂取していた東北地方の県と他の県を比較すると、脳溢血で死亡する人の割合は異なっていた。検定に引っかかったわけだ。だから塩分は取りずぎないようにすべきだという話になったのだが、最近になって塩分を取りすぎると脳溢血の可能性が高まる人は10人に1人程度だということがわかってきた。そうすると、東北地方の人でも10人のうち9人は塩分の取りすぎに神経質になる必要はないということになる。」というような話を心理学会のワークショップで聞いた記憶がある。事の真偽は定かでないが、この説明は統計を用いる際の注意点を述べたものであるから、統計的な意味について注目すればよい。肝要なのは、「場合分け(=集団の特定)ができると、記述の仕方が変わる」という認識であろう。
 demographic属性は比較的やさしい部類であるので、これまで使われてきたわけだが、今後は、それ以外の属性との関連を考える必要があるだろう。ただし、これは非常に難しい作業で、基本的にはあたってくだける(仮説を作って虱潰しにやる)しかない。多少はシステマティックにやるというのであれば、まず、違いが目立つグループを特定し、それぞれの属性を片っ端から挙げていき、違いを一番説明できる要素を見つけだすということになろうか。
(SEMのようなやり方が有力かどうかについては、まだ考えがまとまっていない)
 

現象面の記述

 ここまで書いてきて、英英辞典も調べてみたのだが、その定義が一番わかりやすい気がする。
culture
a. The totality of socially transmitted behavior patterns, arts, beliefs, institutions, and all other products of human work and thought.
b. These patterns, traits, and products considered as the expression of a particular period, class, community, or population:*Edwardian culture; Japanese culture; the culture of poverty.
c. These patterns, traits, and products considered with respect to a particular category, such as a field, subject, or mode of expression:*religious culture in the Middle Ages; musical culture; oral culture.
[AHD3rd]
 行動のパターン、習性、人が作り出したモノ。それがある場所、状況で特有に見られる。それらの文化の一部分に着目して用いることもある。そういった感じだろうか。
 この定義では、主に観察可能なものに文化を認めている。しかし、beliefs, institutions,なども含まれているから、階層的に異なる概念を含んでいると考えられる。以前発表したレジュメに次のように記した。

・現象(※表象)としての文化

Group(刺激−反応)自体としての文化:国際会議にスーツを着ていく

・説明としての文化

Group(刺激−反応)を説明する要因としての文化:国際会議は公式な場である、公式な場にはスーツを着ていくべきである

・思想(※根本原理、理念)としての文化

Group(刺激−反応)の説明要因に現れる思想としての文化:失礼があってはならない、公式なつきあいが重要である

 これらの3つのレベルで現象面を記述できるのではないかと思う。(まずは現象ありき。観察可能である必要がある。)

 このように「文化」を考えてくると、ある特徴を持った集団を特定し、その集団の特徴を記述する。特徴の記述のレベルとしては観察可能な現象のレベル、その現象を説明するレベル、それらを支える深層構造とも言うべき思想のようなレベルがあるということになる。記述はレベル毎に別々に記述することもできるし、リンクさせて記述することもできる。文化には流動性があるから、共時的研究と通時的研究が存在することになるであろう。
 

「文化」を取り入れる視点

 個人差や環境差がまず観察され、どうしてそうなっているのかを2つのレベルで記述するという視点を、文化を環境心理研究に持ち込むアプローチの大枠として提案した。
 このような考え方は新しいものではないと思う。たとえば、行動セッティングというのは、定型的な行動についてではあるが、行動と環境の関連をシノモルフィという形で記述する。それは場所により異なるし、人により異なるし、時間によっても異なるが、当該行動セッティングの外側にいる人間にとっても、よく説明してもらえれば理解可能なものが多いだろう。これまで述べてきた視点を備えているので、環境文化記述のプロトタイプとして使用可能だと思われる。
 環境文化を行動セッティングとして記述することは、文化人類学的な記述になるのではないか(その初期の段階においては、旅行記的なものかもしれない)。そういった記述がいくつか集まれば共通的な、もしくは差異を含んだモデルが構築されていくであろう。そのモデルには、説明要因のレベルが含まれていたり、思想レベルのレベルが含まれることになる。
 
人間 with 人工物(言語、道具、記号) as 集団 surrounded by the 環境
  (我々を取り巻く環境にも人工物(アーティファクツ)が含まれるが...分けて考えている) 
 

サブカルチャー

伊藤滋は、山の手文化、下町文化などを捉え、それに基づいた地域づくりを提唱している。東急、小田急沿線から横浜あたりのエリアは、文化的な生活を望んでいる人々が多いから、そこを繋ぐ鉄道を通して、美術館や図書館やフレンチレストランや、そういったものを整備していけば、より特徴的なエリアが育つだろうと言う。下町は、人々のつながりや活気に重点を置いた整備をしていけば、これも特徴的なエリアが育つだろう。
 人々は、そういった特徴的なエリアから居住地を選択すればいいと言うのである。そう単純な話ではないかもしれないが、どこでも見かけるような駅前の風景とは違った街作りの可能性を感じさせる構想である。環境文化研究がデザインに役立つとすれば、ひとつにはこのような提言に結びつけるやり方があるのではなかろうか。
 

環境移行に伴う摩擦と適応過程

 サブカルチャーを横断しつつ生活する人間にとって、環境の移行は負担を伴うものであろう。その負担を軽減する環境的・文化的な仕掛けといったものも、環境文化研究の主要テーマとなりうる。たとえば、どういった部分は対応しやすく、どういった部分は過去に慣れ親しんだ文化に固執する傾向にあるのかといった問題設定があり得る。
 同じ場所にいても、時間的に変容していく文化というのもある。徐々に変わっていけば抵抗は少ないのかもしれない。しかし、外圧のような形で文化の変容を迫るようなやり方は抵抗を招く。しかし、新しい技術を導入するというような場合には、それに適応的な行動や文化が構築されていく。そういう意味のことをE.ホールが書いていたと思う。摩擦の軽減ということを考えた場合に、なかなか興味深い考察であると思う。
 一方、アムステルダムを案内してくれた初老の女性ガイドは、オランダの冬のどんよりした天気を嘆いていた。若い頃はそうでもなかったが、歳を取るほど、冬の天気が耐えられない。日本の冬の晴天が懐かしい。日本に戻りたい。そういうのである。染みついた文化のようなものを感じさせられた。
 



○ショートショート
オランダで出会った日本人の観光ガイドが教えてくれた話である。スキポール空港では、経費節減に向けて知恵を絞っていたのだが、男子トイレの清掃費を40%も減らす画期的なアイデアが採用された。キーワードは「蠅」。

男子トイレの便器の中に、蠅の絵がシミのように印刷されている[図1]。男性は、それを目掛けて放尿するので、結果として便器周りの清掃の必要性が減り、清掃回数を減らせたというのである。
男性は、トイレの中でも攻撃性を発揮しているのだろうか。

この事例は、モノとしての文化の把握となる。この発表の後、片山委員からタイでは便器に入れられた氷が同じ役割を果たすという情報が得られたが、そうなるとオランダとタイでは文化差があるということになる。ただし、原理的には共通している。
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槙の書いた文章

専門雑誌などに書いた文章を集めています。

色彩

環境心理

アフォーダンス
(建築雑誌1994.11)
わかりやすいガイドライン
(建築雑誌2001.06)
環境評価構造の個人差
(建築雑誌2003.08)
文化的側面を環境心理研究に、どう取り入れるか?
(文化と環境心理SWG報告書2005.03)

感性・印象

印象評価解析における因子分析の使用法
(「印象の工学とは何か」より)

その他

現象学から考える
(人間−環境系理論検討SWG報告書2001.03)