年代 |
西暦 |
事 蹟 |
年令 |
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安 |
元年 | 1854 |
岐阜県恵那郡岩村町に旧岩村藩士平尾鍒蔵の長女として生まれる。 幼名せき(鉐) |
1才 |
和歌習作に励む。 | ||||
明
治 |
3年 | 1870 |
父鍒蔵東京に出て、神祇官宣教掛となる。 |
17才 |
4年 | 1871 |
父のあとを追って上京し、祖父東条琴台に教えを受ける。また、和歌を加藤千浪・八田知紀に学ぶ。 |
18才 |
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5年 | 1872 |
宮中に出仕。宮内省十五等に補せられる。 和歌の才能を愛でられ、皇后より歌子の名を賜う。 |
19才 |
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和歌 | ||||
12年 | 1879 |
宮中奉仕を辞す。 |
26才 |
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13年 | 1880 |
旧丸亀藩士下田猛雄と結婚する。 |
27才 |
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15年 | 1882 |
私立桃夭学校を創設して、上流子女の教育に当たる。 |
29才 |
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17年 | 1884 |
夫下田猛雄歿す(5月) |
31才 |
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18年 | 1885 |
華族女学校開設。幹事兼教授に任ぜられ、校長事務を代行する。 |
32才 |
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19年 | 1886 |
華族女学校学監に任ぜられる。叙正六位 「家政学」2冊を著す。「国のすがた」刊行に与かる。 |
33才 |
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20年 | 1887 |
「国文小学読本」・「和文教科書」を編著する。 | 34才 |
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26年 | 1893 |
欧米各国女子教育状況視察のため、渡欧する。 |
40才 |
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28年 | 英国ヴィクトリア女皇に拝謁する。(5月) 視察を終えて帰朝する。(8月)・ もみじの寄せ書 |
42才 |
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29年 | 1896 |
常宮・周宮両内親王御用掛を拝命、ご教育の事に当たる。叙正五位。 |
43才 |
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31年 | 1898 |
帝国婦人協会を組織し、その会長となる。 「普通礼式」・「料理手引草」を著す。 |
45才 |
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32年 | 帝国婦人協会付属実践女学校および女子工芸学校を、東京市麹町区元園町に開設し、その校長となる。5月7日を開校記念日とする。 「泰西婦女風俗」を著す。帝国婦人協会機関誌「日本婦人」を発刊する。 |
46才 |
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33年 | 1900 |
帝国婦人協会新潟支会を置き、付属新潟女子工芸学校(現在新潟青陵学園)を開設する。 「新選家政学」2冊を著す。 |
47才 |
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34年 | 1901 |
愛国婦人会を設立する。叙従四位。 「家庭文庫」・「新題詠歌捷径」「少女文庫」を著す。 実践女学校にはじめて清国留学生1名入学する。 |
48才 |
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35年 | 1902 |
愛国婦人会機関誌「愛国婦人」を発刊、「女子用文習字帖」・「子女教養全書」6冊を著す。 |
49才 |
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36年 | 東京府下渋谷町常盤松旧御料地二千坪を恩借し、実践女学校新校舎を建設、移転する。 「明治才媛歌集」を編著する。 |
50才 |
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37年 | 1904 |
「女子自修文庫」5冊を著す。 |
51才 |
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38年 | 1905 | 実践女学校に清国留学生部を設け、赤坂区桧町に分教場を置く。 |
52才 |
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39年 | 1906 |
華族女学校廃止され、学習院女子部となったため、学習院教授兼女学部長に任ぜられる。叙正四位。 「女子の修養」を著す。 |
53才 |
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40年 | 1907 |
学習院女学部長を辞任する。叙勲四等宝冠章。 清国奉天省より官費留学生23名の教育を委嘱される。他に私費留学生21名入学。以後大正3年まで清国各省より留学生を受入れ、90余名の卒業生を出す。 「欧文歌集」を編著する。 |
54才 |
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41年 | 1908 |
実践女学校の全財産および私財を寄付して、財団法人帝国婦人協会実践女学校を設立し、理事に就任する。 実践女学校付属幼稚園を設立し、園長に就任する。叙従三位。 「衛生経済家事実修法」著す。 |
55才 |
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42年 | 1909 |
「家庭の栞婦人文庫」を著す。 |
56才 |
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43年 | 1910 |
「婦人常識の養成」を著す。 「ポケット女大学」を編著する。 |
57才 |
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44年 | 1911 |
「女子三体消息文」を編著する。 「婦人礼法」を著す。 |
58才 |
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45年 | 1912 |
「女子自修文庫」5冊完成する。 |
59才 |
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大
正 |
2年 | 1913 |
「日本の女性」を著す。 |
60才 |
3年 | 1914 |
「礼法家事婦人修養十講」・「女子の修養」を著す。 |
61才 |
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4年 | 1915 |
「家庭」を著す。 |
62才 |
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5年 | 1916 |
「女子の礼法」・「結婚要訣」を著す。 実践女学校学友会誌「なよ竹」を発刊する。 |
63才 |
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7年 | 1918 |
大日本婦人慈善会経営順心女学校の校長に就任する。 |
65才 |
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8年 | 1919 |
滋賀県神崎郡五箇荘町淡海女子実務学校(現在淡海女子専門学校)設立に際し、その顧問となる。 |
66才 |
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9年 | 1920 |
愛国婦人会会長に就任する。 |
67才 |
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10年 | 1921 |
逓信省貯金局女子従業員の教育を目的として明徳女学校を設立し、校長に就任する。 愛国婦人会会長として、樺太および朝鮮・満州に出張する。 |
68才 |
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12年 | 1923 |
関東大震災の惨害に対し、愛国婦人会および実践女学校を中心として、罹災者救援活動を展開し、年末におよぶ。 |
70才 |
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13年 | 1924 |
愛国婦人会本部内に愛国夜間女学校を設立し、その校長に就任する。 「講義録国漢文篇・家政篇」実践女学校専門学部国文学会より逐次刊行される。 |
71才 |
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14年 | 1925 |
淡海女子実務学校を継承して校長となり、実践女学校より教師五名を派遣する。 |
72才 |
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15年 | 1926 |
淡海女子実務学校を昇格、淡海高等女学校と改称する。 大日本実修女学会から「実修女学講義録」を発刊する。 |
73才 |
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昭
和 |
2年 | 1927 |
愛国婦人会会長を辞し、同会本部顧問となる。叙勲三等瑞宝章。 |
74才 |
4年 | 1929 |
実践女学校に付属夜間女学校を設ける。 |
76才 |
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5年 | 1930 |
淡海高等女学校の校長を辞す。 |
77才 |
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6年 | 1931 |
帝大病院塩田外科に入院。手術をうける。 |
78才 |
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7年 | 「思ひ出の記」10篇を「愛国婦人」に寄稿する。 愛国夜間女学校校長を辞し、同校名誉校長となる。 実践女学校校庭に喜寿記念碑竣工し、祝賀式典を挙げる。[記録音声] 「香雪叢書」の刊行をはじめる。 |
79才 |
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8年 | 1933 |
実践女学校三校合同秋季運動会。
[記禄フィルム]
皇太子殿下 御命名式 御嘉辰に際して。 |
80才 |
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9年 | 1934 |
「香雪叢書」全五巻完成する。 |
81才 |
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10年 | 1935 |
岐阜県恵那郡岩村町の生誕地跡に下田歌子顕彰碑成り、除幕式を挙行する。 |
82才 |
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11年 | 1936 |
肺水症のため逝去。(10月8日)遺骨を東京都小石川護国寺墓地に埋葬する。 |
83才 |
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12年 | 1937 |
実践女学校校庭に香雪神社建立され、鎮座祭を行う。 |
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13年 | 1938 |
岐阜県岩村町乗政寺山に分骨墓地竣工、供養を行う。 小石川護国寺の墓域工事完成し、三回忌法要を行う。 |
※下田歌子の明治期の著作の大部分は、国立国会図書館近代デジタルライブラリーで閲覧できます。