理念と伝統

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学園の変遷と復興

1936(昭和11)年 学祖下田歌子逝去

学祖下田歌子はかねてよりの病状が悪化し、1936(昭和11)年に82歳で逝去します。本学のみならず日本の女子教育振興に果たした功績は大きく、葬儀での文部大臣平生釟三郎、女子学習院長長屋順耳ら多くの弔辞にその一端を伺うことができます。
学祖という大きな柱を失った学園は、改めて学祖の想いを再認識・再確認し、下田精神のもとで更なる実践女子教育の発展を目指すことになります。

小石川護国寺墓地 下田歌子墓小石川護国寺墓地 下田歌子墓

1945(昭和20)年 戦災による校舎焼失と終戦

太平洋戦争下においては、本学でも教職員・学生生徒による勤労動員、学校報国隊組織が行われました。長期戦が覚悟される中で高等教育・中等教育における修業年限も短縮されました。やがて戦火が拡大する中、1945(昭和20)年5月25日の大規模空襲により学園のほぼ全ての校舎が消失、貴重な図書や資料なども失われました。
終戦直後の厳しい状況において、学園はわずかに焼け残った校舎を応急修理し、同年9月から授業を再開します。時代の大きな転機を迎え、本学は女子教育の復興という課題に立ち向かうことになります。

戦時中の高等女学校の服装(昭和18年頃)戦時中の高等女学校の服装(昭和18年頃)

1947(昭和22)年 法人名称を実践女子学園に改称、実践女子学園中学校設置
1948(昭和23)年 実践女子学園高等学校設置
1949(昭和24)年 実践女子大学設立、文家政学部(国文・英文・家政学科)設置
1950(昭和25)年 実践女子学園短期大学設立、家政科設置。翌年、国文科・英文科設置

戦後の学制改革が進む中、学園は短期間で新制度教育機関として復興を遂げます。
1947年から1950年までの4年間で、実践女子大学、実践女子学園短期大学、実践女子学園高等学校、実践女子学園中学校の4校を設置し、現在にまで至る学園の組織基盤がつくられました。

渋谷校舎正門と陞勲記念館(昭和26年頃)渋谷校舎正門と陞勲記念館(昭和26年頃)

学園創立50周年記念式典(昭和24年)学園創立50周年記念式典(昭和24年)

1965(昭和40)年 日野大学校地に校舎・日野寮・プール竣工
1968(昭和43)年 実践女子学園短期大学を実践女子短期大学に名称変更
1976(昭和51)年 日野短期大学校地に校舎竣工
1985(昭和60)年 日野大学校地に新校舎ならびに体育館竣工、文学部美学美術史学科設置

各学校が戦後復興の中で順調に発展を遂げる中、より充実した教育環境を整備するため、学園は東京都日野市の土地を校地として入手します。都心を離れ自然に囲まれた落ち着いた勉学環境で、校舎だけでなく学生寮や運動場、プールなどの学園施設拡充も行われました。当初は四年制大学の教養課程を収容することを目的としていましたが、やがて短期大学、四年制大学の全面的な移転に向けて日野校地の校舎整備が進められました。

竣工当時の短大校舎竣工当時の短大校舎

建設中の大学校舎(本館)建設中の大学校舎(本館)