理念と伝統

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結婚生活・上流女子教育

1879(明治12)年、歌子は周囲から惜しまれつつ宮中を辞し、旧丸亀藩士の下田猛雄と結婚します。猛雄は旧幕時代には剣客として知られていましたが、まもなく胃病を患い、長く病床の人となってしまいました。

桃夭学校時代(右が歌子)桃夭学校時代(右が歌子)

病夫を抱えた生活の中で、歌子には一つの新しい道が開かれます。明治政府高官たちの間で、自身の子女教育をすぐれた女性教師に托したいという要望が高まり、当時名声も高く宮中を辞したばかりの下田歌子に、希望の目が向けられました。

1882(明治15)年、歌子はこうした要望と援助によって、麹町区壱番町(現在の千代田区九段南2丁目)に「桃夭学校」を開設します。下田歌子による、女子教育の始まりです。「桃夭」とは桃の若木の瑞々しさを若い女性に喩えたもので、学校には上流の子女たちが集まりました。
1884(明治17)年、下田猛雄が逝去。夫を看取ったとき、歌子は31歳になっていました。この頃、鳥尾小弥太に禅学を学ぶなどの記録が残されています。

1885(明治18)年、近代日本にふさわしい、質実剛健で徳育に基本を置いた上流女子教育を、という皇后の令旨により、華族女学校(後の学習院女学部)が開設されました。下田歌子は、学校開設と同時に教授に任ぜられ、翌年には学監として、以後退官まで歴代校長を補佐し、学校運営と教育に従事しています。