理念と伝統

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下田歌子FAQ

実践女子学園の創立者である、下田歌子。FAQ形式で、その魅力に迫ります。

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名前の由来について教えてください。

「下田歌子」は、出生時の名前ではありません。幼名は平尾鉐(せき)といいます。
姓の「下田」は結婚相手である下田猛雄のものです。
名の「歌子」は、宮中に仕えていたとき明治天皇の皇后(昭憲皇太后)から賜ったものです。和歌に優れていたため、その才能を愛され「歌子」と名付けられました。

生年月日を教えてください。

1854(安政元)年、旧暦の8月9日に生まれました。

生まれた場所を教えてください。

美濃国恵那郡岩村藩

美濃国恵那郡岩村藩(現在の岐阜県恵那市岩村町)です。
現在、生誕地である岩村の城跡公園には、下田歌子が幼少期を過ごした勉強部屋を再現した「下田歌子勉学所」、その和歌を刻んだ顕彰碑、下田歌子の銅像が建てられており、郷土の偉人として顕彰されています。

どのような家庭で育ちましたか?

生家の平尾家は岩村藩主松平氏に代々仕えた武士で、学問に優れた家柄でした。しかし歌子の父は、藩の方針とは異なる勤王学者であったため、家禄停止などの処分を受けています。一家は貧しく、祖母、母と共に幼少期の歌子も自ら働き、家庭を支えました。この経験は、歌子の自立自営と学問の実践を掲げる女子教育理念に大きな影響を与えています。

どのような性格の人でしたか?

一般女子教育と、社会における女性の地位向上という理念を貫き、自ら実践した、意志が固く行動力のある女性でした。また、勉強の機会に恵まれない女性のため、頻繁に地方での講演に出かけたり、自ら生徒の保証人となったりと、とても面倒見の良い女性でした。一方で華族女学校の制服を考案するなどお洒落で、また上下の隔たりを感じさせない性格のため、生徒から大変に親しまれました。

どのような外見でしたか?

下田歌子

源氏物語をはじめとする国文学から、和歌、家政学にいたるまで、幅広い才能に恵まれた一方で、容姿にも恵まれており、紫式部と比されることもあったと言われています。

好きな食べ物を教えてください。

山縣有朋夫人宛の手紙では「お見舞いに玉子を頂戴しましたが、好物なのでとても有り難く思います」と記されています。また、和田郡平宛の手紙には「好物のりんごをお送りいただき御礼申し上げます」とも記されています。

下田歌子が考案した袴について教えてください。

歌子は自身の経験を生かし、宮中の袴をもとに優美かつ活動しやすいデザインの女袴(行灯袴)を考案しました。この女袴は、現在でも日本中の卒業式で女子大生に着用されています。歌子は海老茶色の女袴を華族女学校の制服として定めたところ、当時の女学生の間で評判となり大流行したことが知られています。

他の教育家との交流について教えてください。

下田歌子

 下田歌子は、同時代を生きた数々の教育家との交流がありました。
 成瀬仁蔵が日本女子大学を創設した際には、その女子高等教育に対する理念に賛同し、設立資金を寄付しています。
 板垣絹子(板垣退助の妻)が順心女学校(現在の順心広尾学園)を創立した際には、招聘を受け理事長・校長に就任しています。
 塚本さとが淡海女子実務学校を創立した際には、嘉悦孝子(嘉悦大学創立者)と共に顧問として招かれています。嘉悦孝子とは、愛国婦人会や花の日会(赤い羽根共同募金の先駆)でも共に活動しています。
 愛国婦人会、大日本教育婦人会の活動では、奥村五百子、山脇房子(山脇学園創立者)をはじめ、他にも鳩山春子(共立女子大学創立者)、大山捨松といった人々とも交流がありました。
 津田梅子(津田塾大学創立者)は、下田歌子の桃夭塾にて英語教師を務めていました。そのかたわらで下田歌子から国語と習字を習い、また下田歌子も津田梅子から英語を学んだことが知られています。

亡くなった日を教えてください。

護国寺

1936(昭和11)年10月8日に亡くなりました。毎年命日の10月8日には、学園関係者による護国寺の墓参が行われています。

お墓はどこにありますか?

遺骨は東京都文京区小石川の護国寺に埋葬されています。
また、後に岐阜県恵那市岩村町の乗政寺山墓地にも分骨され、夫と並んで埋葬されています。

もっと下田歌子について知りたいです。

漫画『きらり うたこ』

実践女子大学図書館には、文書、写真、音声、動画など下田歌子に関する数多くの貴重な資料が保存されています。
また、下田歌子の人生をわかりやすくご紹介するために、
漫画『きらり うたこ』が2011(平成23)年に出版されています。