生活環境講座

第24回 再び“紅花”です 牛腸ヒロミ
はじめに

 先日、一般社団法人日本家政学会関東支部主催の見学会に行ってきました。南青山にある「伊勢半本店 紅ミュージアム」の見学と「紅」体験です。
 伊勢半本店は江戸時代(文政8年(1825))から続く最後の紅屋で、日本の伝統的な紅を当時の製法で作り続けているそうです。良質の紅は玉虫色の光沢を放ち、水に溶かすと真赤になります。この玉虫色に輝く伝統的な紅を製造できるのは、ここだけだそうです。

紅の道

 実践女子大学生活科学部生活環境学科のホームページの生活環境講座第15回で述べましたように、江戸時代の紅花の産地は山形(羽州)です。花を摘み、花弁を洗い、発酵させ、臼に入れて搗き(つき)、団子状に丸めて平たくして天日で干せば紅餅の完成です。羽州一帯で生産された紅餅は、最上川を使って、坂田に集め、ここから廻船に積み替えて越前敦賀まで運び、ここから陸路で琵琶湖北岸に運び、再び船で琵琶湖を渡り、大津まで運び、大津からは淀川を使って京都まで運び、たくさんの女性たちを美しく着飾ることに貢献したのです。

古代の紅

 飛鳥・奈良時代から化粧に紅を用いていたということは、高松塚の壁画や正倉院の「鳥毛立女屏風(とりげだちおんなびょうぶ)」に見られる、赤々としたほお紅や真っ赤に塗られた口紅からもわかります。ベニバナや紅については万葉集にもたくさん詠われていて、紅をほお紅として使っていたことを想像させる歌や、紅の深染(こぞめ)、濃染(こそめ)、薄染(うすそめ)などの言葉から、衣に使う場合は、いろいろな色に染めていたことがわかりますし、紅は移ろうものそ、、、などという表現から、紅は退色しやすい、堅ろうでないことが読み取れます。

化粧品としての紅

  紅花は、六世紀後半には日本で栽培されていたと思われますが、大量に栽培されるようになったのは、近世に入ってからです。紅は収量が生花の0.3%と大変少なかったので、紅一匁(いちもんめ)金一匁と言われたように、金と同等の価値があるたいへん高価な物として取り引きされていました。江戸時代の初期には羽州には紅花大尽と呼ばれる紅花問屋がありました。江戸では、270年の江戸時代の間に、口紅、ほお紅、爪紅などの紅化粧に、紅を薄く塗ったり、まったく塗らなかったり、濃く緑色に発色するくらいに塗ったりと様々な流行があったことがわかっています。
 衣服は人間が生きていくために体温保持という面で必要な物ですが、人間は豊かになると、単に着るという人間と自然環境との身体的、生理的機能だけを求めるのではなく、装うという人間と社会環境との精神的、心理的機能を求める心があるということは、今も昔も変わらないことがわかります。

魔よけとしての紅

 染色によって施される色は象徴的な意味も持っていました。例えば赤色は神の象徴として神聖視されていました。もっともこの時の赤色は赤土で鉱物染料(顔料)ですけれど。魔よけとしても信仰されていました。特に紅花染めは魔よけ、悪病よけの効果があるとされ、死亡率の高かった乳児の衣服、産着、お守りなどに使用されていました。乳児の額に紅をつけたり、口紅やほお紅をさすのも魔よけの意味があります。
 江戸時代に疱瘡や麻疹といった伝染病が大流行した際には、赤摺り(紅摺り)のまじない絵がとぶように売れたそうです。赤一色で描いた疱瘡絵やお札を部屋に飾るなどして、厄神を退け、病気治癒を願ったのです。

 草木染めのことを調べていくと、かつての天然染料は衣生活だけではなく、生活全体に関わっていたことがわかります。 (H. G.)

参考図書:
高橋雅夫,「化粧ものがたり 赤・白・黒の世界」, 雄山閣出版, 1997
金子晋,「よみがえった古代の色」, 学生社, 1990
牛腸ヒロミ,「ものとして、心としての衣服」, 放送大学教育振興会, 2011
伊勢半本店 紅ミュージアム資料―紅の歴史・紅の文化を知る―