お宝紹介② 本学図書館所蔵の蔦屋重三郎板本
『故混馬鹿集』2巻 天明5年刊(常磐松文庫)
日野キャンパス図書館入口で開催中の展示「蔦屋重三郎-梓に夢を見た男」から、プレスリリースでも取り上げた1点を紹介いたします。
故混馬鹿集(外題)
朱楽管江編 江戸 蔦屋重三郎 天明5(1785)刊 大 二冊(乾・坤)
原装 内題:狂言鶯蛙集 朱楽管江序 四方赤良後序
本書は淡い縹(はなだ)色表紙、中央に金紙で外題「故混馬鹿集(ここんばかしゅう)」とあり、編者の朱楽管江(あけらかんこう)による序二丁の後、本文巻頭首題は「狂言鶯蛙集(きょうげんおうあしゅう)」と記されています。体裁は上品な和歌集ですが、内容は風刺や皮肉、だじゃれを効かせた「狂歌」で、くすっと笑わせるセンスは現代のサラリーマン川柳を思わせます。巻末は首題と同じ「狂言鶯蛙集巻二十終」、天明四年四方赤良の後序と校合者三名が記されています。奥付は「天明五年乙巳正月吉日」、京都の武村嘉兵衛、大坂の敦賀屋九兵衛とともに「江戸通油町 蔦屋重三郎板」とあります。
巻頭ページ
表紙
蔦屋重三郎が新吉原から、本屋の激戦区である日本橋通油(とおりあぶら)町に移転したのは天明3(1783)年、この時、江戸は空前の「天明狂歌」ブームでした。人々は武士や商人・町人などの身分をこえて「連(れん)」というグループを作り、狂歌を競い楽しみました。すでに大店の書物問屋が『狂歌若葉集』や『万載狂歌集』を出版していましたが、蔦屋重三郎は地本問屋として、このジャンルに初めてきりこんでいったのです。
重三郎自身、吉原時代から「蔦唐丸(つたのからまる)」の狂歌名で連に参加し、四方赤良(よものあから・太田蜀山人(おおたしょくさんじん))や朱楽管江などの文人とすでに親しく交流し、信頼を得ていました。彼らは幕臣ですが、ユーモアあふれる文人で教養があり、超人気の狂歌師でもありました。彼らの了解をとりつけて、選りすぐりの狂歌集を刊行できるのは自分だけだという自負があったことでしょう。
「故混馬鹿集」という外題は、明らかに日本初の勅撰集「古今和歌集」のもじりです。編者の朱楽管江も「あっけらかん」に通ずる響きがあります。本邦初のまことに馬鹿馬鹿しく輝かしい狂歌の集大成であり、唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)も加えた天明の「狂歌三大家」の歌をふんだんに盛り込んだ本書は、人々の心をとらえ、大当たりとなりました。
蔦屋重三郎はこうした人とのつながりを大切に、文人とのネットワークを広げ、黄表紙や洒落本の執筆を依頼するなど次々とビジネスチャンスをものにしていきます。蔦屋のような「地本問屋」は大店の「書物問屋」と違って株仲間がなく、絶えずヒット作を出し、売りぬくことだけが生き残る道でした。本書の下巻(坤)には、重三郎が詠んだ狂歌が載っています。
うりかひの千々の黄金もよみつきぬ三十一文字の和歌えびす講 耕書堂
左頁6行目 耕書堂(蔦屋重三郎)の狂歌
奥付
「耕書堂」は蔦屋重三郎の屋号、「えびす講」は商売繁盛祈願の年中行事で、江戸の商家や吉原では恵比寿様にお供え物をし、夜を通して飲食にぎやかに祝いました。奥付には「正月吉日」、「蔦屋重三郎板」とあり、年が明けて蔦屋がこの本の板木を制作・出版して、京阪の書店へも販売したことを示しています。板木は本屋にとって一番の財産でした。
出来立ての本は初春の陽光にきらきらと輝き、その頃出入りしていた山東京伝や喜多川歌麿をはじめ、馴染みの人々が嬉しそうに手に取る風景が目に浮かびます。カメラもビデオもスマホもない時代、原装のまま当時の姿を伝える本書は、和歌文学の研究はもとより、人と書物の文化史を考える上でもたいへん貴重な資料となっています。
翌天明6年に田沼意次が失脚し、次いで寛政の改革による出版統制が始まって、幕臣の戯作者は次々と筆を折っていきました。寛政3(1791)年には山東京伝が手鎖五十日の刑、重三郎は財産の半減の処分を受け、時代は大きくうねりますが、重三郎はさらなる新しい企画・浮世絵の出版へと挑戦の舵をきっていきます。
それから十余年後、本書の後序を記した盟友・四方赤良(太田蜀山人)は文化5(1808)年、60歳の時、堤防の状態などを調査する玉川巡視に赴任し、ここ日野宿の本陣に立ち寄った際、当主佐藤彦五郎が打つそばをたいへん気に入って、巡回の度に訪れたそうです。(注1)ひとつ違いの重三郎は寛政9(1797)年にすでに47歳で他界しています。そばに舌鼓をうちながら日野の高い空を見上げて、「生きていればなあ、重三郎さんと来たかったなあ」と昔日を懐かく思いだしていたかもしれません。
本学図書館には本書のように、江戸の風情を残す古典籍を他にも多く所蔵しています。
「蔦屋重三郎—梓に夢を見た男」展は8月5日(火)まで
※開館日時については図書館ホームページの開館カレンダーをご確認ください。