『独白』
「当時、橘の香りは昔の人を連想させると言われていたんですよ」
古典の授業で先生がそう言った時、私はどんな顔をしていたのだろうか。
つい最近、推しが死んだ。死亡フラグはこれでもかと言わんばかりに立ちまくっていたし、何となく「この人は死ぬんだろうな」と思っていた。でも覚悟はできていなかった。否、できていると思い込んでいた。
実際に推しが死んだ瞬間を目の当たりにした時、私は涙を零すのを止められなかった。どうしてあの人が死ななければならなかったのだと。客観的に見れば善人ではなかったし寧ろ悪人だったのは確かだけれど、それでも殺すまでしなくても良いじゃないか。どうしてあの人を殺したんだと作者の先生に恨み言の一つでもぶつけてやりたかった。しかしそれはできなかったから、不満や悲しみは胸のうちにしまっておいた。
推しを殺したのは作者の先生だが、同時に推しを生み出したのも作者の先生なのだ。いわば推しの生みの親に文句を言うなんてできる訳がなかった。
それから数年後。不安や悲しみが風化されつつあった中でアニメ化が決定したことを知らせる広告が流れた。喋って動く推しが見られることに狂喜乱舞していたから、推しが死ぬことは頭に無かったのだ。勿論忘れていた訳ではないのだが、それよりも推しが喋って動く──まさに命を吹き込まれた姿を拝める日が楽しみすぎてそれどころではなかったのだ。
そうして実際にアニメが放送され喜んでいたのも束の間。推しは呆気なく画面の向こうでその命を落とした。実際に命が尽きた瞬間までは描写されなかったが、その後の話で案の定推しは死んでしまったことを悟った。
私は一縷の望みをかけていたのだろう。原作では命を落としたけれどアニメならではのオリジナル展開が採用されて、もしかしたら最後まで生き残ってくれるのではないかと。でもそんなことはなかった。原作の通り推しは天に召され、原作の通り推しはその死を惜しまれたことはあっても誰かに悲しまれたような描写は一切なかった。いっそ疎ましいほどに忠実に原作をなぞったアニメだった。
原作を読んで推しが死んだ時から、何度も何度も考えていた。あの人は確かに善人ではなかったし、寧ろ悪人だった。実際あの人の言動で何人もの命が失われたのだから。でも、だからといって死ぬ必要はあったのだろうかと。聡明なあの人なら自分が死なずに助かる方法だって思いついただろうに。いくら自分の命よりも大切な人を助ける為だったとはいえ流石に酷い。私が作者ならあの人を殺すことはしない。
しかし同時に思う。あの人は死に様すらも美しかったと。少なくともあの人は今世への未練などはなかったようだから、きっと完全にとはいえずともある程度は納得して死んだのだろう。大切な人を助けて死ぬだなんて、ある意味あの人らしい。そんなあの人らしくて美しい死に様を台無しにするのは、果たしてファンとして正しいといえるのだろうかと。
「和泉式部と死別した恋人は為尊親王です。これ、テストに出ますからね」
一層大きく通った先生の言葉ではっと我に返る。黒板には記憶よりも遥かに文字が増えていた。思っていたよりも授業が進んでいたらしい。慌てて板書をノートに写す。いつも以上に字が汚い気がするが仕方ない。いつもみたいに色を多用する余裕なんて勿論無かった。
「当時の人たちはことあるごとに和歌を詠むんですよ。やり取りをする和歌のことを『贈答歌』っていうんですけど、その贈答歌だと和歌に詠まれた植物とかを添えたりもするんですよ。例えば、紅葉を詠んだら紅葉の枝を手紙に添えたりとかね」
へえ~、と感心したような声色が何処かから聞こえてきた。しかし先生は気にすることなく続ける。
「『和泉式部日記』でも、今お話しした通り敦道親王が小舎人童に橘の枝を持たせて和泉式部の元に送り出したんですよ。風情があって、なんだかロマンチックですよね」
教室がざわつく。この人の感性は独特だなと思わされた。そう思ったのも何回目か数えるのも面倒になるくらいだ。
この先生は古典の知識量が多く、ことある毎に豆知識を挟んでくる。それが面白くて古典が好きになったという友人もいるくらいだし、私もこの先生に受け持ってもらっていなければここまで古典を好きになることも無かっただろう。しかし先生は古典の世界に夢を見ているのか、それとも先生の感性が大衆とは異なっているのか。分からないが、こういったことがよくある。ことある毎に登場人物たちの言動に対して「風情がありますよね」「素敵ですよね」等と言うのだ。ごくたまに同意できるものもあるが、大半は現代人である私たちの感覚ではいまいち理解できない。それは私たちが高校生だからという理由だけではないだろう。
「そうかな?」
「風情……?」
「なんか嫌だな……」
「えー、私は嬉しいけどなあ」
「まじで?」
賛否両論、様々な声が聞こえてくる。普段なら私も便乗するのだろうが、この時はそんな気分になれなかった。メンヘラとは思わないけど、ロマンチックともいまいち思えなかった。代わりに、もし当時本当にそんな習わしがあったのであれば……と考える。そして未だにざわめく教室と「はい皆さん静かにー。授業中ですよー」と手を叩いて静かにさせようとする先生。そんな教室の様子を気に留めることもなく、私はシャープペンシルを手に取った。筆には遠く及ばないけれど、と思いながらノートの端にペン先を置いた。そしてその手を動かした。
私が当時の人間なら、きっと推しが死んだ瞬間にも和歌を詠むのだろう。だとしたら、私は一首こう詠んでやるのだ。携えた橘の枝を、作ったお墓に供えて。
「忘るまじ 今は亡き君 思い出づ 橘の香と 君のかたちが」
○○○
お世話になっております。文学部国文学科に所属している、よっこです。
後書き(?)に入る前に宣伝を。私が所属している部活が12/28(日)に演奏会を開催しますので、ご都合よろしければ是非お越しください。詳細は公式Xやホームページをご覧ください。
今回は小説を書いてみました。小説というよりは主人公の独白に近くなった気もしますが……。
最後の和歌については、以前とある授業で私が作った和歌になります(その時の課題は和歌ではなく短歌を作るという課題だった気がしますが、和歌っぽいのを作りたいなと思って作った記憶があります)。「橘の花の香りを嗅ぐと、当時の人は昔の恋人を連想させる。古今和歌集に収録された歌が由来(うろ覚え)」といった話を高校時代の古典の授業で聞いた記憶もあります(もしかしたら、先生が話されていたのではなく教科書に書いてあっただけかもしれません。記憶は案外当てにならないなと書いていて思いました)。割と自信作だったこの和歌(短歌?)に日の目を見せてあげたかったのでこの話を書いたと言っても過言ではないです。
当時も今のように二次元に対して熱烈な愛を注ぐ人がどれくらいいたのかは分からないのでその辺も本当に妄想です。でも『源氏物語』等の創作物語があるなら二次元……というよりフィクションを愛する人も一定数いたのではないかと思っています。今も昔もオタクの本質や言動は大して変わっていない、というような話も以前どこかで聞いたことがあるので、現代にも推しの祭壇を作る人がいるなら推しの墓を建てる人もいるのでは? そしてそういう人は今だけではなく当時もいたのでは? という妄想です。周りにいるという話は聞いたことがありませんし、私も建てたことはないですが。次元を越えた推しが死んだ経験は何度もあるのですが……。
つまり、この文章は以前作った和歌を使いたくて妄想に妄想を重ねまくって作られたということです。完全に自己満足でしたが、楽しんでいただけましたら幸いです。
ここで筆を擱かせていただこうと思います。最後に、ここまでお読みくださった皆様、誠にありがとうございました。それでは、またお会いできる日を楽しみにしております。







