【翻刻・解説】文豪の筆跡01 芥川龍之介書簡 佐藤春夫宛 1917(大正6)年4月18日差出
翻刻
【封筒】
(表)横須賀6・4・18前10‐□ 3銭 東京市下谷区谷中清水町一江口渙様気附 佐藤春夫様
(裏)下谷6・4・18后3‐□ 緘 かまくら 芥川龍之介 四月十七日夜
【本文】
三四日、京都と奈良へお花見に行つてゐたんで、今日やつとあなたの手紙をよみました。先へはかきをよんで、それから封書の方をみたんですが、不足税も何もとられてゐないので、大に可笑《をか》しくなりました。あの封書へスタンプを押した郵便局員氏に、感謝する価値があります。
公冶長《こうやちやう》(*注1)の五十枚には少し驚きました。僕も書かんとしつつある小説の中に、公冶長がああ《ママ》ります。鳥の聯想《れんさう》で、フランシス(*注2)の事を書いたものを見てゐるうちに、書く気になつたんですが、甚《はなはだ》へんてこなものです。書けたら、発表しますから、よんで下さい。尤《もつと》も何時になるかわかりません。勿論あなたの公冶長が発表された後です。
秋成(*注3)は、前にすきでした。今でも嫌ぢやありません。併《しか》しあの文章は、清少納言などにくらべると、少し土臭い所があるやうな気がしますが、どんなものでせう。
僕は今、眼をつぶるやうな気で、いやな小説の続稿(*注4)を書いてゐます。前からの成行き上快漢ロロオ(*注5)みたいな所を、どうにか書きぬけなければならないんだから、心細くつていけません。
僕論は、あなたがやめると云ふと、ちよいと見たい気もします。とにかく、天邪鬼《あまのじやく》ですからね。
それから犬は、僕も二匹飼つた事があるんです。さうしてそいつを二匹とも、犬殺しに殺された事があるんです(*注6)。その二匹だけは、今でも可愛い気がしますが、あとのやつはいけません。これは矛盾ではありません。或は矛盾にしても、人間の心が始から持つてゐる矛盾です。
流行児扱ひをするのは、世間がするのなら、いいが、あなたがするのはいけません。これは完く恐縮だから、御辞退します。現に今月も、孤月君に(孤月君では少し二枚目がたきですが)こき下されてるぢやありませんか(*注7)。
アナトオルフランス(*注8)は、僕は十二三冊よんだ事があります。ペンギン島なんと云ふ奴は、フランスの歴史にリフアしてあるんで、その方面に無学な僕にはつまらなかつた覚えがありますが、あとは大抵面白くよみました。ペドオク女王の庖とか何とか云ふやつを、よんだ事がありますが、あいつは、フランスの駄弁を最よく表現した作だと云ふ気がします。この頃又思ひ出して「白い石」をよんでゐますが、やつぱりうまいですね。
ああ云ふ人は沢山ゐますよ。芋粥(*注9)だつて、大に新小説の編輯君には、評判が悪かつたんださうです。
これからねます。
以上
十六日《ママ》夜
芥川龍之介
佐藤春夫様
梧下
(1)孔子の門人。鳥語を解したとされる。1916年の郊外生活中、佐藤はこれを題材に執筆したが、
編集者に原稿を紛失され、幻の作品となった。
(2)アッシジのフランチェスコ(1182-1226)。清貧思想で知られるイタリアの聖人。鳥に説教した逸話があ
る。
(3)上田秋成(1734-1809)。江戸後期の国学者・歌人・読本作者。
(4)芥川の小説「偸盗」(『中央公論』1917年4、7月号)。
(5)1916年11月に日本公開されたアメリカ映画。
(6)狂犬病予防のための野犬駆除で犠牲になったということ。芥川の犬嫌い、佐藤の犬好きは有名。佐藤の
作品に「西班牙犬の家」(『星座』1917年1月号)がある。
(7)中村孤月(八郎)の文芸時評「四月の文壇を評す(三)」(KHN生、『読売新聞』1917年4月10
日)。
(8)アナトール・フランス(1844-1924)。フランスの作家。
(9)芥川の小説「芋粥」(『新小説』1916年9月号)。
*翻刻では、仮名遣いは原文通り、漢字を常用漢字に改め、読みやすさに配慮してルビ《 》および句読点を
補いました(原文の誤字は《ママ》で表示)。
【解説】
佐藤春夫は1910(明治43)年、新宮中学(和歌山県)を卒業して上京、新詩社で与謝野寛(鉄幹)に師事し、慶應義塾で永井荷風に学んで文学修行に精を出しますが、鋭い才気が災いして孤立。1916(大正5)年には神奈川県都筑郡中里村(現横浜市青葉区)で「隠棲」を余儀なくされます。
その生活にも行き詰った頃、東京帝大の江口渙らから同人誌『星座』の発刊計画を持ちかけられ、佐藤は翌年1月の創刊号に「西班牙犬の家」を掲載。また、3月号からアナトール・フランスの「人間悲劇」(聖フランシス伝)の翻訳連載を開始し、江口の友人だった芥川龍之介の関心を惹きました。これに4月号の「同人語」で佐藤が感謝を示したことが交流のきっかけになり、芥川は4月5日付で佐藤に手紙を書きます。
4月17日付のこの書簡は、それに続く2通目のものです。2人はまだ面識がありませんでしたが、芥川は佐藤に同類の資質を見出して胸襟をひらき、文学談義を楽しんでいる様子が窺われます。当時の芥川はまだ作家専業の生活に入る以前。海軍機関学校に勤務していた時代で、書簡にも「横須賀」の消印が確認できます。
芥川最初の創作集『羅生門』(阿蘭陀書房刊)が5月に刊行されようとしていました。佐藤は江口とともにその出版祝賀会を呼びかけ、6月27日にこれを実現させます。華々しいデビューを飾った芥川をまぶしく仰ぎながら、佐藤も負けじと奮起を誓ったはずです。
佐藤は翌年、神奈川での「隠棲」生活を内面的に描いた「田園の憂鬱」(『中外』1918年9月号)で諸家の絶賛を浴び、念願の文壇進出を果たしました。この手紙は、互いをライバルと認めて高め合った羨ましくなるようなよき友情の記念品です。
なお、書簡の図版はコレクターが『別冊太陽 近代文学百人』(1971年1月号)に提供していますが、全集未収録。難読の筆跡で全文翻刻は恐らく今回が初めての知られざる書簡です。(河野龍也)