【翻刻・解説】文豪の筆跡03 太宰治書簡 佐藤春夫宛 1935(昭和10)年6月5日差出
翻刻
【封筒】
(表)世田谷10・6・5后0‐4 3銭 小石川区関口町二〇七 佐藤春夫様
(裏)〆 世田ケ区経堂町経堂病院内 太宰治
【本文】
拝啓
このたびは、命(いのち)うれしく思ひました。
よろこびの言葉をあれこれと一昼夜ほど、えらびまよつた揚句のはてに、命うれしくといふ言葉がふいと浮んで来ましたので、もうこれ以上考へても、だんだん書きにくくなつて行くばかりであると思ひ、いそいで筆をとりました。
病気(*注1)がすつかりなほりましたなら、山岸君(*注2)に連れていつてもらはうかな、とたのしみにしてゐます。同封の手紙(*注3)をごらん下さい。山岸君はいい友人だと思ひます。私も悪くはありません。きつと好きになると思ひます。
わざとつまらないことばかりを言ふのです。うつかり気をゆるめたら、バンザイが口から出さうで、たまらないのです。
恥かしくてならない、これでしつれいいたしますけれども、決して不愉快にならないで下さい。私は精一ぱいだつたのですから。
先生もおからだを御大切に。
治 拝
佐藤春夫 様
(1)太宰は1935年4月、盲腸炎のため阿佐ヶ谷の篠原病院に入院するが、手術後悪化させて腹膜炎を患い、そこ
で用いた鎮痛剤パビナールの中毒から長い苦しみが始まる。5月に経堂病院に転院、7月1日までに退院し、
千葉県船橋町五日市本宿1928に転居した。
(2)山岸外史(1904-1977)。評論家。「佐藤春夫論」(『散文』1934年1月号)で佐藤に認められ入門。太宰
との交流について書いた『人間太宰治』(1962年10月、筑摩書房刊)がある。
(3)山岸は佐藤の手紙(1935年6月1日付)を太宰に転送する際、一筆添えて礼状を促した。太宰はその書き添
えをこの書簡に同封したのである。それは現存するが、未公開。ただし、太宰自身が翌年、自分に送られ
てきた手紙を加工して羅列した「虚構の春」(『文学界』1936年7月号)に、その文面を紛れ込ませてい
る。また、前述の佐藤の手紙は、太宰の第一創作集『晩年』(1936年6月、砂子屋書房刊)の帯に印刷され
ている。
*翻刻では、仮名遣いは原文通り。漢字を常用漢字に改め、句読点を補いました。
*注3は今回初公開の情報です。山岸書簡(書き添え)がどれを指すのか、興味のある方は「虚構の春」をお読
みになって、当ててみてください。山岸外史は「吉田潔」、佐藤春夫は「深沼太郎(深沢太郎)」の名で登場
します。山岸の原文は半分に切った原稿用紙に書かれています。文面は太宰の引用と少し違っています。
【解説】
佐藤春夫と太宰治の関係では、いわゆる「芥川賞事件」が注目されがちです。1936(昭和11)年、太宰は選考委員の一人だった佐藤に授賞を懇願しますが、第2回、第3回と落選し続けて絶望した太宰は、作品「創生記」(『新潮』1936年10月)に佐藤から授賞を確約されたかのように書きます。それを真に受けた中条百合子から批判を浴びた佐藤は、「芥川賞—憤怒こそ愛の極点」(『改造』1936年11月)で太宰の虚妄をたしなめ、中条の批判に抗議しました。太宰はその後、鎮痛剤依存の根治のため、10月13日に井伏鱒二らの勧めで板橋の武蔵野病院に入院させられます。退院後、佐藤家には遠慮してあまり足踏みしなくなりました。
佐藤の没後、家の押入れに残されていた1935年から36年に及ぶ太宰書簡が40点近く見つかりました。奥野健男の解説を添えて公開され、そこから事実の内情が明らかになりました(『恍惚と不安』1966年12月、養神書院刊)。「家のない雀」と署名した2月5日付の約1mの懇願状がこのとき知られましたが、それからほぼ半世紀を経た2015(平成27)年、別に1月28日付の4mに及ぶ懇願状が新たに見つかり、調査を行っていた本学では、遺族・関係者と調整の上、同年9月、これを貴重な文学資料として公表しました。
巻紙に毛筆で書かれた手紙の長さと、「泣訴」そのものの内容に衝撃が走り、2015年の公表当時は懇願状ばかりが注目されてしまったようです。それ以外にも、このとき2通の新しい手紙が公表されたことを知る人は、相当な太宰ファンと言えるかも知れません。ここにご紹介するのはその1通、太宰が佐藤に送った最初の手紙です。
1935(昭和10)年3月以来、太宰は自殺未遂、大学中退、腹膜炎での入院をきっかけとする鎮痛剤への依存など、失意のどん底にあえいでいました。そんなとき、太宰の小説「道化の華」(『日本浪曼派』1935年5月号)を佐藤が激賞しているという話が、友人の山岸外史からもたらされます。太宰は最初、半信半疑でしたが、転送されてきた佐藤の手紙(6月1日付)を見て快哉を叫び、早速書いたのが6月5日付のこの礼状です。考え抜いて編み出した「命うれしく」の言葉から、月並みな感謝の言葉ではとても足りない嬉しさが、ストレートに伝わってくる文面です。
経堂病院を退院して35年7月から船橋で療養を始めた太宰は、体調の回復を待ち、8月12日付の葉書で、佐藤家訪問の日時を尋ねています(これが2015年発見書簡の2通目です)。8月21日、太宰は山岸に連れられて小石川関口町の佐藤家の門をくぐり、佐藤春夫と初対面を果たしました。歓待された太宰は大喜びで礼状を書いています。「家へ帰つて机にむかひ、ふと気づいてみると、私の身のまはりに、佐藤春夫のnaturalな愛情がまんまんと氾濫してゐたのです。…私よりも先生のはうが青年だわいと思はれるふしもございました」(8月22日)。第1回芥川賞の受賞を確信していた太宰が、落選に屈辱を感じていた折しも、文壇の有力者から励まされ、面倒見のよい兄貴肌の佐藤に甘えて次のチャンスに期待したのも、この時期の太宰の焦りからすれば自然だったのかも知れません。
佐藤は作品「芥川賞」(のち改題して「或る文学青年像」)で一時的に不快を示しはしたものの、太宰の才能を愛する芸術上の立場は、初対面から太宰没後にいたるまで、少しも揺らぐことがありませんでした。36年2月、懇願状を受け取った佐藤はまず太宰の体調を案じ、弟秋雄が勤務する芝の済生会病院への入院を手配しています。入院中、千代夫人と見舞いにも訪れました。また、48(昭和23)年6月13日深夜、太宰が玉川上水で入水したという知らせに対して、佐藤はすぐさま詩「太宰治よ」(『文学行動』1948年7月号)を寄せています。
名を得むともだえなげきし若き日の
君をそぞろに思ふわりなさ(佐藤春夫「太宰治よ」の反歌)
1956(昭和31)年8月6日、太宰の故郷青森の友人・中村貞次郎の実家に近く、かつて二人が共に遊んだ蟹田観瀾山に、太宰治文学碑が建立された際、井伏とともにその実現に尽力した佐藤は、碑文の揮毫を引き受けています。文学碑の建立には、非業の最期を遂げた太宰の里帰りの意味もありました。
「泣訴状」の長さのみに目を奪われることなく、その長さの背後にある物語にもぜひ心を寄せてみてください。愛憎劇の波乱も、最終的には大きく包み込んでしまう芸術家気質(かたぎ)で認め合った師弟の信頼。その深く無類の交歓が踏み出されるこの第一信のなかには、かくもさわやかな文面が今も色あせることなく残っているのです。(河野龍也)